変奏曲の午後




 その日、紅蓮が買い物から帰ってくると、家の中は珍しく静かだった。平日だから勿論子どもらは学校に行っているのだが、普段から安倍家に留まっていることの多い同胞たちも異界にいるのか、気配が少ない。秋も深まり始め時折北風が吹く外と比べて、屋内は暖かい。首に巻きつけていたマフラーを外して紅蓮はふうと息を一つ吐き出した。
 買い物袋片手に廊下を進みながら気配を探ると、リビングにどうやら勾陣がいるらしいということがわかった。時折漏れ聞こえてくる音はテレビを見ているのか、それとも音楽を聴いているのか。
 台所でひとまず冷蔵庫に生鮮食品を放り込むと紅蓮はリビングに足を向けた。
「ただいま、何やってんだ」
 テレビがついていない代わりにオーディオセットからクラシックが流れている。躍動的なピアノだ。座卓に、レンタルショップの袋が置いてあるから借りてきたのだろう。
「ああ、騰蛇か。お帰り」
 座卓に広げたCDジャケットをひっくり返したりライナーノーツを捲ったりしていた勾陣が首を巡らせて瞬きをした。その隣に紅蓮も腰を下ろす。
「珍しいな、勾がクラシックか」
「ああ、借りっぱなしになってたのをすっかり忘れてて。……私がこの手の音楽を聴くのはそんなに似合わないか?」
 ちら、と視線を寄越した勾陣に慌てて手を振る。
「別にそうとは言ってないだろ。珍しいだけだ」
「たまたま目に入ったから借りてみただけだ」
 ふうん、と返事をして、座卓に肘をついた。生憎と紅蓮は音楽に造詣が深いわけではない。神将の嗜みとして和楽器なら一通り演奏はできるが、クラシックなどの西洋音楽の手合いはどうにも苦手というか食指が動かない。同じ外来のものでもジャズの方が幾分かは興味の範疇にある。だから、今勾陣が聞いているそれが一体誰が作曲した何という音楽で、さらにピアニストは誰なのかということに関してはほぼ全く興味が湧かないのでジャケットすら見なかった。
 興味がないのだからあえて尋ねることもせず、紅蓮はよっこらせと立ち上がった。勾陣はまだノートを捲っては熱心に読んでいる。
「勾、コーヒー入れたら飲むか?」
 ああ、だかうん、だかいい加減な返事が背中から聞こえた。
 折角だからインスタントではなく豆から淹れようとコーヒー豆をミルで挽きながら湯を沸かしていると、後ろから「カフェオレがいい」と注文が入る。
「はいはい、っと……」
 ついでにテーブルの上に置いたままになっていた買い物の残りを片付けつつコーヒーを淹れる。自分の分はブラック、勾陣のは要望どおりに甘さを控えたカフェオレに。
 二人分のマグを手に再びリビングに向かうと、勾陣はさっきと変わらず曲の説明書きと思しき箇所を読んでいた。
「面白いか、それ」
 マグを置きながら尋ねると帰ってきた言葉は「さして面白いわけではないが興味深い」と、いかにも彼女らしい。
「まぁ今回はこのピアニストが気になって借りてみただけだからな」
 はらりと白い指が捲るページが戻っていく。
「へぇ、何でまた」
「よくある天才ピアニストとやららしい。今までにない斬新な演奏法で一躍有名になったとか」
 ずらずらと奏者の略歴を記す紹介文を限りなく省略して話す勾陣の声を半ば聞き流しながら紅蓮はコーヒーを啜る。
「……それで、このピアニストの名前なんだが」
 何故だか、そこで勾陣はふと唇の端を持ち上げた。
「ぐれん」
「……っ!?」
 紅蓮は危うくコーヒーを気管に流しかけて盛大に噎せ返った。
 げほげほと咳き込みながら勾陣を横目で睨みつけると、彼女は悪戯が成功した子供みたいに肩を震わせて笑っていた。
「名前は、グレン・グールドというらしい」

fin.

09.11.9.