夏休みのある日の彼ら
ちりん、という涼やかな音色に、勾陣は顔に伏せていた本を取り上げた。
どうやら、いつの間にか寝入ってしまっていたらしい。
汗ばんだ髪を掻き上げ、自分以外の安倍家の面々はどこへ行ったのだろうかと勾陣は寝起きのぼんやりとした頭で考えた。
真夏の陽光が障子越しに畳の上に影を落としている。家の中は、蝉の声が外からじりじりと聞こえてくる以外はひどく静かだ。
晴明以下、大人たちは仕事。盆休みに入る前に片付けてしまいたい件が山ほどあると、六合がぼやいていた気がする。昌浩と彰子は、確か宿題をするのだと言って図書館へ。太陰は、「こんなに暑くちゃ泳がなきゃやってらんない!」と叫んで玄武を引っ張り、白虎を保護者代わりにして市民プールへと繰り出していった。それ以外、天后や太裳たちは、わからないがきっと異界に留まっているのだろう。
大所帯の安倍家で人の声がしないというのは、それなりに珍しい。
ひんやりと冷たい畳の感触を素足で楽しんで勾陣は寝返りをうった。
しばらくの間そうやって突っ伏していた後、身体を起こして立ち上がり、障子を開け放った。暗がりに慣れた目に射るような日の光が飛込んできて、思わず目を細める。瞼の裏に焼きついた緑色の残像が消えるのを待ってゆっくりと再び目を開けた。
縁側に出てガラス戸を引くと、外の方が湿度が低いのか思いの外涼しい風が吹いてくる。髪を撫でた風が鴨居から下げた風鈴を鳴らすのを聞きながら縁側の日の当たらないところに腰を下ろした。
庭先の地面がゆらゆらと歪んで見える。先ほど目が覚めた時に見た時計は二時半を指していた。太陽の下には間違っても出たくはない時間帯だ。
安倍家が比較的郊外に建っているせいもあるだろうが、屋内で聞くのとは違う、騒音と言っても差し支えないぐらいの蝉の鳴き声がする。
その音を背景に、勾陣は昼寝によって中断された読書を再開した。
三分の一ほど読み進めたところで、玄関の戸が開くのが聞こえて、勾陣は顔を上げた。誰かが帰ってきたのだろうと思ったが、立ち上がるのも面倒だったので再び本に意識を戻す。
「お帰り、騰蛇。買い物にでも行っていたのか?」
背後からよく知った気配と足音が近づいて来たので、本に目を落としたまま振り向かずにそう声を掛けると、紅蓮はシャツの襟元をばたばたと扇いで風を入れながら、ああ、と首肯して勾陣の隣に座った。
「勾、お前何て格好してるんだ…」
「別にいいじゃないか。暑かったんだ」
「いや、それはわかるが、何ていうか、こう…」
七分丈のジーンズはさておき、上がタンクトップ一枚なのはいささか目のやり場に困る。
もう少しその辺りの自覚を持ってはくれないだろうか。ついでにその格好で家の中をうろつかれては昌浩の教育上あまりよろしくないぞ、などとあれこれ頭の中で並べ立てた紅蓮が出した結論は、今は二人きりなのだからまあいいか、だった。
「あー…暑…」
「夏だからな。しかも何だってわざわざこんな時間に買い物に行ったんだ、夕方でもよかったんじゃないのか?」
「だな。俺も今後悔しているところだ…」
うんざりしながら髪に手を入れてがしがしと掻き回した紅蓮は、そのまま後ろに倒れ込んで顔に腕を翳した。
どうやら本気で参っているらしいその様子に苦笑して、勾陣は本を置くと台所へと立った。本性の時だと感じない寒暖が人型を取ると身に堪えるということはわかっているはずである。騰蛇の学習能力がなかった記憶はなかったのだが、と呟いて食器棚から二人分の茶器と盆を取り出し、冷蔵庫の中にあった緑茶を急須に移してそれも茶器と一緒に盆に乗せた。
「悪いな、勾」
「気にするな。私が飲みたかっただけだ」
「はいはい」
よっこらせと起き上がって片膝を立てた紅蓮の横に柱に背を預けて腰を下ろし緑茶を茶器に注いだ。透明なガラスの茶器から透ける鮮やかな緑色が、盆の木目にゆらゆらと波紋を描いている。複雑な模様の変化を楽しんでから勾陣は茶器を手に取った。
「夏だなー」
「そうだな」
だからどうしたと言われればそれまでなのだが、夏だ。水色の絵の具を溶かしたような色をした空には真っ白な綿雲が浮いている。向うの方に見える神社の青々とした木立を眺めてしみじみと茶をすすった紅蓮の目の前を、トンボが一匹横切った。
この暑さのせいで庭の草木も心なしか元気がないように見える。日が落ちて地面が暑くなくなったら水やりをしないといけない。今やると土の温度で水が熱せられてしまい逆に植物の根が弱ってしまう。夕食の支度を始めるにしてもまだ時間はあるしそれまで一眠りするかと、紅蓮は傍らの勾陣の横顔を伺った。
「なあ、勾」
「何だ」
「昼寝したいから膝を貸してくれと言ったら怒るか?」
許可を求めつつ、しかし横になって縁側に寝そべった紅蓮の頭はちゃっかりと勾陣の膝に乗せられている。普段ならここで暑苦しいからくっつくな、とにべもなくあしらわれてしまうところだが、勾陣は呆れたように笑ってみせただけだった。何も言わないということはつまり好きにしていいのだろうと都合よく解釈して両腕を腹の上で軽く組んだ。
「私がこの本を読み終わったら即行で叩き起こしてやるからな」
「…了解」
紅蓮が目を閉じたのを確認して、勾陣は栞を挟んでいた箇所より少し前のページを開いた。
一時間ぐらいは寝かせておいてやろうか。
幾重にも伏線が張り巡らされたこの物語の結末まで、残り後200頁。
fin.
07.8.15.
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08.5.06.テキストページに移動