にわか雨




 八百屋の前で足を止めてから既に10分近く、紅蓮は悩んでいた。
 トマトにするか、茄子にするか。それとも南瓜か。いや、いっそ全部買うという手もある。あ、あのキャベツもいいな。
 人参はまだある。ピーマンに胡瓜、玉葱もストックがあって、それから肉は何があっただろうか。
冷蔵庫の中身と今晩のレシピとを頭の中から引き出しつつあーでもないこーでもないと腕組みをして頭を捻らせていると、横合いからおい、と少し低めの声が投げかけられた。
「何だ、勾。あとちょっと待ってくれ。トマトと茄子と南瓜なら、お前どれがいい?」
 視線は相変わらず野菜が乗った笊の上に置いたまま答えると、呆れたような溜息と共に肩を捉えられて、紅蓮は否応なく勾陣の方を向いた。
「どれでもいいだろう。それより、そろそろ帰った方がいいんじゃないか」
「……あ?」
 紅蓮は訝しげに首を傾げた。勾陣と二人で買い物をする時は、大抵が紅蓮のペースで進む。彼女は一言二言注文をつけるだけで、全てをこちらに丸投げしている。どうしてついて来るんだと一度訊いたら、荷物持ち兼面白いから、と返された。要するに、楽しみたいだけなのだろう。
 その勾陣が早く帰りたいと言うとは、珍しいこともあるものだ。
 反対側に首を傾けて、紅蓮は口を開いた。
「見たいテレビでもあるのか?」
「……私を昌浩と同レベルで扱うな」
 阿呆、とぺしりと頭をはたかれた。昌浩を買い物に引っ張ってきたらよくある展開なのだが、違うらしい。
 どうにも彼女の思考回路は未だに理解しがたくて困る。
「じゃあ、何なんだ」
「雨が降りそうだから今のうちに帰ったほうがいい」
 腕を組んだ勾陣が頭一つ分低い位置から見上げてくる。確か傘を持ってきていなかっただろう、と耳に心地のよい声が続けた。
 言われてみれば、そうだった。ああ、と頷き返して、紅蓮はちらりと屋根と屋根の隙間に見える空を窺った。さっきよりも少し雲の割合が増して薄暗くなってきたようだ。陽気な商店街の音楽に混じって微かに遠雷の音も聞こえる。
 このところ天候が不安定で、夕立は毎日のようにあるから今日も果たしていつ崩れるやら、といったところか。天気予報はあまりアテにならない。ついでに大事なことを思い出したが、洗濯物を取り込んでいなかった。
「そうだな、降られる前に帰るか」
「ああ、だからさっさと何を買うのか決めろ」
「……わかった」
 有無を言わさぬ勾陣に促されて再び野菜と向き合う。
 結局茄子と南瓜を買い、紅蓮と勾陣はようやく八百屋を後にした。
 道幅が狭い上にちょうど人が増える時間帯の商店街をできるだけ足早に抜け、あと少しでアーケードが切れるというところまで来た時だった。
「……あ」
 同時に声を上げて、二人はアーケードの向うに広がる空を見上げた。
 薄曇りだったはずの空があっという間に鉛色に変わり、生ぬるい風が吹く。角度を持って落ちてきた大粒の水滴が湿っぽい匂いを鼻腔に運んできた。
「だから、言ったんだ……騰蛇、どうする」
「あー……どうしよう」
 勾陣はやれやれと肩を落としてみせる。頭に手をやりぐしゃりと髪を掻いて、紅蓮もまた溜息をついた。そうしている間にも、ますます雨は激しくなっていく。
 周りに目をやると、買い物客たちの中にも、仕方がない、といったふうに再び商店街の中心に足を戻す者もいれば、強行突破を試みる勇者もちらほらと見受けられる。
 ざわめく人々の流れの中に取り残されて、紅蓮と勾陣は顔を見合わせた。
 何となく、互いが言わんとしていることは察しがつく。あとはどちらがそれを先に口にするのかというタイミングの問題だ。
「勾」
「何だ、騰蛇」
「いち、止むまで待つ。に、小降りになった隙に走る。どっちがいい」
 顔の前に指を二本立てて、今思いつく限りの選択肢を示した紅蓮に、黒曜の瞳が一瞬見開かれる。
 考えるようにゆっくりと目を瞬かせてから、勾陣は唇の端を持ち上げて紅蓮が提げていた買い物袋のうちの一つを取った。
「家まで全速力で走るぞ、騰蛇」
「……帰ったら即行で風呂だな」
「違いない。当然早く着いた方が先に風呂の権利だからな」
「よしその勝負、受けて立った」
 軽く視線を交わしてにやりと笑い、水煙で霞む景色の向こう側へと跳び出した。



「……それで、二人してずぶ濡れになって帰ってきたってわけ?」
「……そう、だな」
 玄関先で静かな怒りと呆れがない交ぜになった瞳を向けられて、勾陣は目を逸らした。
 その脇を、「先に風呂入るからな」と悠々と騰蛇が通り抜けていく。ちょっと待てこらと服の裾を引っ張ってやりたいが、それよりも目の前の彼女だ。
「天后、とりあえずこの野菜を冷蔵庫に」
「ほんとに、もう勾陣、あなたってひとは……!」
 ぎゅっと拳を握り締め、唇を尖らせた天后からタオルを受け取った勾陣は換わりに買い物袋を手渡した。
 一緒に台所まで向かい、野菜室に一つ一つ買ったものを入れていく天后の背を眺めながら身体と髪を拭う。肌に張りつく服が気持ち悪い。
「まったく……連絡してくれれば誰かしら迎えに行ったのに」
 立ち上がって振り向いた天后の言葉に、あ、と勾陣は間の抜けた声を発した。
 そうか、その手があったか。
「まさか、思いつかなかったの?」
「……全く」
 心底驚いたような親友に首肯して、勾陣はタオル片手に風呂場に足を向けた。
 ああ、まったく。損をした気分だ。さっさと出ろと騰蛇に言うついでに一発お見舞いしてやろうか。

fin.

08.8.17.