移ろい
ちりちりと庭のどこかからか虫の音が聞こえてくる。昼間はまだ蝉が鳴いていたはずだが、いつの間にかそれらは草の陰で鳴りを潜めていた秋の虫に取って代わられていた。そういえばもう秋の彼岸を過ぎたのだったか。朝晩に吹く風もすっかり涼しくなり、それと意識せぬままに季節は秋へと移ろうとしている。一週間ばかり後にはもう衣替えだ。
「おい、勾」
背後からかけられた馴染みのある声に、勾陣は物思いにふけっていた思考を現実へと引き戻した。「ああ」と目をテーブルに落としたまま生返事をすると、視界に湯気を立てるマグが二つ置かれる。そこでようやく顔を上げて、テーブルの反対側に腰を落ち着けた同胞の姿を目に入れた。
「ほら騰蛇」
「ん」
マグのうちの一つを騰蛇へと押しやり、勾陣自身ももう片方を手にとって中の液体を口にした。鼻腔に抜ける芳醇な香りと共にブラックコーヒーが喉を滑り落ちていく。
ことコーヒーに関しては自分よりも騰蛇の方が淹れるのが上手いのだ。素直にそれを認めてしまうのはどうにも釈然としなくて、勾陣は前髪をかき上げた手で頬杖をついてもう一口コーヒーを啜った。
時計の針は午後4時半を回ったところ。あと少しすれば昌浩たちが帰ってくるだろうから、そろそろ夕食の支度を始めなければならない、というタイムリミットまでの僅かなひとときを過ごす時、二人の間に特に会話らしいものは存在しない。ただ何となく互いの存在をそこに確かめ合ってぼんやりと時間が過ぎるのを待つ。一千年前ならば、それが日常において占める割合はほんの僅かなものだったが、今はその逆だ。特に何をするわけでもなく一日を人界で過ごし、気が向けば家事の手伝い。一部の同胞に至っては、主夫業がすっかり板についてしまっている。十二神将がこれでいいのかと思わないでもない。
時が移ろえばひとの心も変わるとは最初の主の言だが、よく言ったものだ。
カップの中身が半分より少なくなったところで、勾陣は何気なく「騰蛇」と呼びかけてみた。
「今と昔、お前はどちらが有意義だと思う?」
「……は?」
唐突過ぎた疑問に、騰蛇は軽く目を見開いて意図がわからないとでも言いたげに首を傾げた。さすがに伝わらなかったかと苦笑して、勾陣はカップを両手で包み込んだ。
「あの頃、私たちは基本的に異界に留まり、主の招集に応じて馳せ参じ、命を実行していた。勿論、それだけが全てというわけではなかったが、意識の大半はそちらに向けられていて、それ以外の―例えば季節の移ろいとかには無頓着ではなかったか」
「……まぁ、そりゃそうかもな。本性じゃ特に暑い寒いも感じなかったし」
訝りながらも頷いてみせて、騰蛇はふと懐かしむような目をあらぬ方に向けた。唯一無二と定めた主とその後継のために尽くす。大小さまざまな傷を負うことも多々あったが、それがあの時の幸せな記憶の大部分を占めている。彼らと共に過ごした季節は、その時々の出来事に応じて思い出されることはあっても、何てことのない日常においては、果たしてどうだったのだろう。
春には桜を、夏には貴船の蛍を、秋に紅葉を、冬には空から舞う六花を眺め、視覚的あるいは聴覚的な四季を共有していたが、肌や 匂いでそれらを感じるようになったのは、ごく最近のことだったと、勾陣は記憶を辿る。
「私は……こうして人型を取って人界に長く留まるようになって初めてそういったものを身に沁みて体感した気がするよ」
そうして、人間みたいに生活するのも悪くないなと思うようになった。
「だなぁ……。あの頃は特に気にしたことなかったんじゃないのか、朝晩の冷え込みだの、夏の蒸し暑さだの」
口元に苦笑めいた笑みを滲ませた騰蛇の瞳が細められ、ついとカップに落ちる。「あの頃の、俺らの力を存分に発揮した日々も悪くなかったが、俺はこの生活だって嫌いじゃない」とぽつりと漏らして、薄い色の瞳が勾陣を捉えた。
お前はどうなんだ、勾と問いかける双眸に、勾陣も唇を持ち上げた。
「こういうことに関しては昔からお前と意見が合うのだな」
残ったコーヒーを一口に飲み干して、勾陣は椅子から立ち上がった。
「そろそろ夕食の支度をするんだろう、騰蛇」
「あぁ。そういや、今日は昌浩の奴夜に裏の仕事が入ったとか言ってたから、ちゃんと作ってやらんとなぁ」
「では当然、肉抜きメニューだな」
暗黙のうちに手伝ってやると伝え、それから「どうせお前一人に任せるとまた煮込み料理だ」と付け加えるのを勾陣は忘れなかった。
fin.
08.9.30.