Halcyon days
厳しかった寒さがようやくここ数日になって緩み始めた。昼間は汗ばむほどの陽気になる日もあり、ぽかぽかと柔らかな日差しが心地よい。
欠伸を噛み殺して、ジェレミアは草の上に身体を投げ出した。人気のない政庁の裏庭は、格好の昼寝スポットだ。雲ひとつない空の青さが目に沁みる。
頭の下で組んだ腕を枕代わりにしばしの間微睡を楽しんでいると、草を踏み分ける靴音が耳朶に触れた。休息を妨げる無粋な音の持ち主を確かめるために重たい瞼を上げると、
庁舎の白い壁を背景にしてこちらに向かって歩いて来る副官の姿が視界に入った。
「ジェレミア卿、こんなところにいらっしゃったのですか」
「……昼休みはまだ残っているだろう」
「別にそのようなことを言いに来たわけではありません」
ほんの少しだけ眉を顰めてみせて、ヴィレッタはジェレミアの隣に腰を下ろした。彼女から何の叱責も飛んで来ないというのはそれなりに珍しい。
「いけませんか、私がここに来ては?」
探るようなジェレミアの視線に、ヴィレッタは首を傾げて立てた片膝に頬杖をついた。
「いや、むしろ大歓迎だ」
くつりと喉の奥から笑声を漏らし、ジェレミアは肺の奥まで息を吸い込んだ。この季節特有の、僅かに甘いような温い空気が鼻腔に広がる。本国のものとはまた違った、極東に春の到来を告げる匂いにも、すっかり慣れ親しんだ感がある。
「じきに春になるな」
「ええ、やっと暖かくなってきました」
空を見上げながら気持ちよさそうに腕を伸ばすヴィレッタの目元に、ふと疲労とは違う別の感情が滲んだのにジェレミアは気づいた。すぐに消えてしまったそれは、よく注意しないと見逃してしまうほどの僅かなものだったが、長い付き合いの中で幾度も目にする機会があった。
「ヴィレッタ、何かあったのか?」
何気なさを装いそう言うと、一瞬だが言葉に詰まる気配がする。やはりそうか、と胸中で呟いて、ジェレミアは足を組み替えた。
さわりと草が風に揺れる音が響く。しばらくの沈黙の後、「何故、そのようなことを?」と躊躇いがちな言葉が返された。
「お前がここに来るのは大抵厭なことがあった時だろう」
「…別に、何もありません」
これ以上の詮索はされたくないと言いたげな声と共に、ふいと顔が背けられる。折角ひとが心配してやっているというのに、可愛げのない女だ。せめて自分の前ではもう少し素直になれと言いかけた言葉は飲み込んで、俯いている横顔を斜め下から窺った。大方何があったのかは容易に想像がつく。
自らの腕のみで現在の地位を手に入れた彼女がその出自の低さゆえに根も葉もない陰口を叩かれていることを、ジェレミアが知らぬはずがない。色仕掛けで騎士候になっただの、管理官であるジェレミアを誑かして補佐の座に収まっただの。その他到底口には出して言えないようなことまで、耳に入ってくる度にジェレミアは馬鹿馬鹿しいと一笑に付してきた。それは実力がなく落ち零れていった者や、貴族出身であることを自慢するしか能のない輩の単なる僻みである、と。
「気にしすぎても始まらんぞ、あのような輩は捨て置くのが一番だ」
そのような人間は、実力主義のブリタニアではいずれ淘汰され消えていくのが定めだ。所詮は我ら純血派の踏み台に過ぎないと、ジェレミアは信じている。
「いつかお前にも騎士候などではない本物の爵位を与えてやる。それまでの辛抱だ」
「……やはり、卿には敵いませんね。別に気にしているわけではありませんので、ご心配なく」
虚を衝かれたように一瞬目を見開いて、溜息混じりに口元に笑みを乗せて答えたその顔には、もう翳りはなかった。
「ところでジェレミア卿」
「何だ」
最前までの落ち込みを微塵も感じさせない様子でヴィレッタは懐から時計を引っ張り出し、「そろそろ時間です」と文字盤を眼前に突き出した。非情にも、針は後10分で休憩時間が終わることを示している。
「…まだいいではないか、あと少しだけ」
「だめです」
ぴしゃりと言い放ったヴィレッタに気圧されて、ジェレミアは渋々身体を起こした。軍服についた草の葉を払い落としながら、「午後の予定は?」と問う。
「先日のテロリスト掃討活動の報告書が上がってきています。ご確認を。あと、資材調達に関する意見書の取りまとめの提出期限が三日後です」
背後に回りジェレミアの背を軽くはたいているヴィレッタは実に忠実に己が為すべきことを空で読み上げた。否が応でも職務に引き戻す少し低めの声に、つい「面倒だな」と不平が口から漏れる。何だってこんな素晴らしく晴れた日に、執務室に籠って鬱々と公務に励まなければいけないのだろうか。本能は陽光の下で過ごすことを求めているというのに。
「そうは思わんか、ヴィレッタ」
「文句ばかり仰っていると、本日のティータイムはなしにします」
しかし、彼女の口から返ってきたのはジェレミアの予想を違えないつれない言葉だった。肩越しに視線をヴィレッタへ流すと、それでもよろしいのですか?と、琥珀色の瞳が向けられる。
「ふむ、それは困る」
「では仕事してください」
さも当然のように言って、ヴィレッタは片手を腰に当てた。すっかりこの副官に手綱を握られてしまったような気がする。ジェレミアは先ほどのヴィレッタの口調を真似て、「お前には敵わんな」と半ば嫌味の意味も込めて言ってやった。
「何年あなたの部下をやっていると思ってるんですか。ほら、戻りますよ」
軍服の裾を翻してヴィレッタは歩き出した。その動作に合わせて、高く結い上げられた銀髪が視界を横切る。数歩進んでから 早くしろとばかりにこちらを振り返った彼女にやれやれと応じてみせて、ジェレミアは距離を縮める一歩を踏み出した。
fin.
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