Lady & Gentleman
ペンが紙を擦る音が響く静かな執務室で、ジェレミアは目を落としていた書類から顔を上げた。今やっている内容に関連したものがもう一つありはしなかったかと唐突に思い出したためである。一度気になったことは早々に解決しないと気が済まない性格ゆえに、ジェレミアはペンを動かす手を止めて「ヴィレッタ」と己の副官の名を呼んだ。
「この間のアレはどうなっていた」
「ああ、卿が面倒だから後回しにすると仰ったやつですか。あれから手付かずのままですが」
アレ、の一言で意思の疎通ができる関係にある副官は、「そう言えば期日は四日後ではありませんでしたか?」と続けた。
そう言われてみると、確かに処理が面倒だから後でやろうと思った記憶はある。書類を書棚の未決裁ファイルから探し当てたヴィレッタが中身を確認しつつこちらに歩んで来るのを横目で窺いながら、またやらねばならないことが増えたな、と心中で呟いた。
「これですね」
「ん」
ペンを置いてヴィレッタが差し出した書類の束を受け取り、紙を捲って中身にざっと目を通したジェレミアの視界の端を銀の色が掠めた。この色を、ジェレミアはよく知っている。
「ヴィレッタ…」
「何か、内容にまずい点でもありましたか?」
「そうではない。何度机に乗るなと言えばわかるのだ」
こめかみを空いた手の人差し指で押さえて、ジェレミアは軽く嘆息した。その様子を眺めていたヴィレッタは「すみません、つい」と一応反省の言葉は口にしたものの降りるつもりは更々ないらしい。ジェレミアとて名門貴族の出であるのでこういった無作法は気になって仕方がないし毎回毎回ヴィレッタに注意をするのだが、一向に改める気配は彼女にはない。犬猫でも躾ければもう少し主人の命令を聞くものではないかと思いつつ、諦めかけているのも事実である。
「淑女は机の上などには座らぬものだ」
「どうせ私はそのようなものではありませんので」
肩を竦めてそう切り返したヴィレッタに、ジェレミアはふん、と鼻を鳴らしてこの女を黙らせる切り札をいつものように口にした。
「だが、貴族になりたいのであればその辺りの嗜みは身につけるべきだな。何なら私が教えてやろうか?」
貴族、という単語にヴィレッタが弱いのは知っている。意地の悪い笑みを口の端に浮かべながらわざとその言葉を強調して彼女の顔を下から見遣ると、ヴィレッタはしぶしぶといった体で腰を上げた。
「いい子だ」
「またそのような物言いを…」
「人の言うことが聞けぬのは子どもではないのかね?」
ジェレミアの物言いにむっとして眉を顰めてみせた副官を手招いて傍に呼び寄せ、今度は一体何がしたいのかと言いたげなその腕を取りもう片方の手で腰を捉えて強引に膝の上に乗せた。
「…っ、ジェレミア卿!いきなりこんなことをするのは止めてください!」
「では事前に断りを入れればいいのかね?どうせ色よい返事は貰えんだろうがな」
「そういう意味ではなくて…」
「ではどういう意味かな?」
普段は抑えられているヴィレッタの表情の変化を観察して面白がっていると言えばきっと怒るに違いないだろうが、ジェレミアの前でだけ見せる意外な顔は何時間見ていても飽きない。これもヴィレッタ本人に言う気はないが惚れた弱みかと言われればそうなのかもしれない。
「…紳士はこのようなことをなさらないものです」
「それは心外だな、私が紳士でないとでも言いたいのかヴィレッタ。まさか他人の目があるところでこんなことをするはずがないだろう。それぐらいの節度はある。だが、今は二人きりなのだから別に構わんだろう」
「それでは私が机に座るのも別に構わないということになりますがよろしいので?」
「ふん、相変わらず口が減らないな」
他愛ないやり取りを楽しんでいるジェレミアに、ヴィレッタはくすくすと笑って「貴方の部下ですから」と返した。
「ほう、言ってくれるな。ではその減らず口を塞いで何も言えぬようにしてしまおうか」
「どうぞお好きなように」
呆れたような微笑を洩らしたその吐息ごと、ヴィレッタの口を己の唇で塞いだ。
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