夏の風物詩




 また出た、らしい。
 夏が来ると毎年政庁内で静かな噂がさざ波のように広がっていく。
 曰く、人気のない書庫で足音がしただの、廊下の奥の暗がりに足のないイレヴンの兵士がいただの。
 当初その噂を聞いた時分は、こちらの幽霊には足がないのかとおかしなところで感心した覚えがある。
 本国の幽霊には足があるのが普通だし、季節を問わず出現するものであった。
「もうそんな季節か」
「政庁の中でも目撃者が数人いるみたいですね」
「ふん、馬鹿馬鹿しい。そのようなもの」
 当然だが、上層部としてはそのような噂は認めていない。しかし認めないがゆえに噂に尾鰭がついてさらに広まって言っているのも事実である。
 ジェレミアはヴィレッタの話した数々の噂を鼻で笑い飛ばして紙にペンを走らせる作業を再開させた。
「ヴィレッタ、No.C-23の資料を資料室から取ってきてくれ」
「はい」
 了承の意を示して執務室を出て行ったヴィレッタの方は見ずに報告書の束を手に取った。
 面倒だからと先延ばしにしているとこうなるのはわかっているのだが、面倒なものは面倒だ。
「…しまった、ついでにこちらの資料も頼むべきであったな」
 今から追いかければヴィレッタはまだすぐ近くにいるだろうと判断したジェレミアは席を立った。
 廊下に出て右手を見ると、ちょうど奥の階段にさしかかろうとしている見知った背中を見つけた。
「ヴィレッタ!」
 名を呼ぶとぴたりと足を止めた彼女の元へ足を運んだ。
「いかがなさいました?」
「もう一つ、F-189も一緒に持って来てくれ」
「わかりました。では、卿は先にお戻りください。すぐに取ってきます」
「ああ」
 踵を鳴らして階段を下りて行った彼女とは反対に、ジェレミアはそのまま元来た廊下を戻った。
「…はて、あそこに階段などあったか?」
 まあ、広い政庁のこと、まだまだ把握しきれていない箇所があっても不思議ではないだろう。
 そう結論付けて、執務室のドアを開けた。
 開けて目に入ってきたものにジェレミアはドアノブに手をかけたまま動きを止めた。
「ジェレミア卿、どちらへ行かれていたのですか」
 書棚の前でファイルを抱え、こちらに向き直ったのは紛うことなくヴィレッタ・ヌゥである。入り口で立ち止まる上司を不審に思ったのか首を傾げた彼女はファイルをジェレミアの執務机に置いた。
「…資料室へ行ったのではなかったのか?」
「ええ、先ほどの資料ですが、以前に持ち出してあったのを途中で思い出したので引き返してきたのです」
 卿と行き違いになったのでしょうか、とヴィレッタは口元に手をやって思案する。
「ヴィレッタ、私はつい今しがた別の資料をついでに頼もうと思ってお前の後を追いかけたのだが…」
 そして確かに廊下を歩く副官に追いつき、用件を述べたはずである。
執務室に足を踏み入れたジェレミアはつかつかとヴィレッタのところまで歩み寄るとその顎に手をかけた。
「あの、卿…。私はここを出て戻ってくるまで誰とも会っていないのですが…」
「…それは本当か」
「はあ…」
 心持ち居心地が悪そうにしながらヴィレッタはそう答えた。彼女がこんなことで嘘をつくような性格でないことは永年の付き合いから承知している。
 ということは、ヴィレッタが誰にも遭遇していないというのは事実なのだろう。
 起こった出来事を頭の中で整理するための長い沈黙が続いた後、ジェレミアは漸う口を開いた。
「では、私が話しかけたのは一体誰だったのだ……」
「…夏ですから」
「そうだな、夏だからな」
 夏だから、の一言で片付けられる辺りはだいぶエリア11に馴染んできた証であるのかもしれない。



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