スノー・ホワイト




 トウキョウ租界は稀に見る大雪だった。ヴィレッタがこのエリアに赴任してからは初めてかもしれない。
 昨日の晩から降り出した雪の量は既に10cmを越えている。今朝起きた時には止んでいてほっとしたのも束の間、家を出ようとドアを開けた瞬間、鈍色の空から白いものが舞ってきた。己の不運を呪ったヴィレッタは寒空の下へと一歩を踏み出した。
 街頭のニュースが環状5号線に遅れが出ているらしいと告げているのを耳にしつつ、政庁に着いた頃にはすっかり雪まみれになっていた。
 暖房の効いた屋内の暖かさに、強張っていた全身の筋が解れていくのを感じながら「おはようございます」と執務室の扉を開けると、ジェレミアが「……歩いて来たのか?」と意外そうな目を向けてきた。その言葉の裏に、車はどうした?という疑問が存在するのを見て取ったヴィレッタは「帰りに動かなくなるかもしれないのが厭だったので」と応じた。
「傘も差さずにか?」
「この程度ならば必要ないかと思ったのですが……」
 自宅から政庁までそれほど距離があるわけでもないし、何とかなるだろうと判断したのだが、その予想は少々甘かったようだ。外套を脱いでハンガーに吊るしているとタオルが放って寄越される。濡れた服と髪を拭きながら、せめて傘を持って来ればよかったとヴィレッタは今更ながらに後悔をした。
 軍服は室内にいればその内暖房で乾いてくれるだろうからいいとして、高く結い上げた髪の水分はなかなかなくなってくれず、いっそ解いてしまいたい衝動にかられた。そんな心中を察したのか、「気になるなら解けばいいだろう」という声がかけられる。
「一旦下ろしてしまうと直すのに時間がかかるんです」
「どうせ午前中は大してやることもない」
 ジェレミアの「やることはない」はあまり信用してはいけない。果たしてどうだったかと今日の予定を頭の中で思い浮かべたヴィレッタは「……では、お言葉に甘えさせていただきます」と、手早く髪留めを解きにかかった。
 タオルで髪を拭きつつ窓際に移動して空模様を窺うと、心なしかヴィレッタが来た時よりも雪の降り具合が強くなっているようだった。
「これでは午後の合同演習は中止でしょうか」
「だろうな。こんな雪の中でナイトメアを操縦しろと言われても兵の士気は上がらぬだろうて」
 溜息を吐く気配と共に「もっとも、豪雪地帯における対テロリスト戦を予想しているのならば話は別だろうが」と続けたジェレミアが隣に並んだ。
「まだ平定されていない北方のゲットーなどありましたか?」
「イシカワかニイガタ辺りは未だテロリストの活動が活発だという報告を聞くが、さすがに参謀も雪に慣れた部隊を行かせるだろう」
「でしょうか……」
 可能性としては低いが、ジェレミアがクロヴィスの親衛隊の一員である以上全くないとも言い切れない。
 生まれ育った環境ゆえに、ヴィレッタは雪というものに対して馴染みが薄い。記憶の中にある、時折降った雪は、いつでも灰色で、薄汚れた貧民窟の光景と相俟って、決して美しいとは思ったことはなかった。
 一方ジェレミアは比較的北方の出身だったと記憶している。「ジェレミア卿は慣れておられるのでは?」と見上げると、心底うんざりした顔が向けられた。
「士官学校時代に積雪時の野外演習を経験したが、二度と御免だ。ランドスピナーが雪に取られて思うようにはいかぬ。攻略するならば雪のない季節にするのが賢明だな」
「それも、そうですね」
 頷き、ヴィレッタは髪を纏めて胸元に流した。あと少しで乾きそうだ。
「……ジェレミア卿、遊ばないでください」
 髪を弄りにきたジェレミアの手をやんわりと払いのけて、溜息を吐き出した。


 昼前になっても雪の勢いは衰える様子もなく、中庭の草木も地面もすっかり白く覆われた。
 先ほどからじっと机上のモニターを眺めていたジェレミアが、顔を上げて一言、「中止だ」と肩を竦めてみせた。
「やはり演習は中止ですか」
「のようだ。ふん、案外気骨のない連中ばかりだな、上は」
 雪中での演習は厭だとぼやいた口でそれを言うか、と口に出しはしないものの、ヴィレッタは若干の呆れを含んだ眼差しをジェレミアにやった。
「久々に身体を動かせる機会だと思ったのだが、残念だ」
 デスクワークから逃げる機会の間違いでしょうと心中で返し、窓の外に目を移した。帰る頃に降り止んでくれるとありがたいが、そうでなければまたこの雪の中を歩いて帰宅する羽目になる。車で来た方がまだマシだっただろうか。
「しかし、午後の予定が空いてしまったな」
 未決の書類の数を確認してそう呟いた上司に「では明日の分まで仕事を片付けてください」と机に更なる紙の束を積み上げた。途端に、面倒くさいと言わんばかりに精悍な顔が顰められる。
「日々激務に追われる私を少しは労わろうという気はないのか、お前は」
「それを3時までに終わらせてくださったら労わって差し上げます」
 先日ヴィレッタがうっかりバレンタインデーを忘れてしまった詫びとして約束していた手製のクッキーを用意してある。そのことを告げると、ジェレミアはぱっと表情を輝かせた。
「よし、任せたまえ」
 何と単純なひとだろう。
 俄然やる気を見せて仕事に取り組みだしたジェレミアを見下ろしたヴィレッタの頭の中では、本日のティータイムの計画が立てられ始めていた。

fin.

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