その、傷痕に




 道反の瑞碧の海の辺で、物の怪は凪いだ水面を眺めて座っていた。まさかここに二度も沈む羽目になるとは思ってもいなかった。
同胞に沈められたことを思い出して、がりがりと爪で土をかいた。別に彼女に落とされたことだとか、沈められたことを根に持っているのではない。誰が何と言おうと。たぶん。ただ―また失いかけるのかと思った。川に落とされかけた腕を掴もうと手を伸ばした時に感じたひやりとした感覚は、以前天狐と対峙した時に感じたものと同じだった。当たり前のようにそこにあると信じていた存在がなくなるかもしれないという恐怖。昌浩に対して抱くのとは違う別の何か。もやもやと燻る想いに名を付けることができずに苛立った物の怪は、背後から神気が一つ近づいてくるのに気付き、尾を振った。
 自分を海に沈めた張本人である彼女は、迷うことなく物の怪の傍らに腰を下ろした。
「もう目覚めたのか。もう少し海の底でおとなしく眠っていればよかったものを」
「お前こそ、傷の具合はどうなんだ?また悪化したんじゃないだろうな」
「快復した。問題ない」
 そう返されて初めて勾陣の方を向くと、確かに外傷は消えたように見えた。しかし、伊達に彼女と長い付き合いをしているわけではない。またつまらない意地を張っているなこいつは、と僅かな仕草からそれを読み取った物の怪は本性に戻り、勾陣の後ろに回ると有無を言わさず自分よりも一回りは小さい肢体を膝の上に抱え上げた。
「っ、おい騰蛇!何をするんだ!?」
「うるさい、黙ってろこのばか。右肩を庇ってるのが丸わかりだ」
「…お前には敵わないな」
 やはり、まだ真鉄と対峙した時に負った怪我が、大蛇と戦った際に負担となったのだろう。実際のところ、御統丸の波動を受け止めていた右腕は未だに痺れが残っているのだと、少々決まり悪そうに白状した勾陣は紅蓮に背を預けた。
「痛むか?」
「派手に動かすと、少し。大蛇の妖気に当てられたみたいだ」
「まったく…どうしてお前はいつもいつもこうやって傷だらけなんだ。神気だってまだ完全に回復したわけじゃないんだぞ」
 少しはこっちの身にもなってみろ、と言いかけた言葉は飲み込んだ。あまりひとのことは言えないという自覚はそれなりにある。剥き出しの白い肩を何となく眺めていた紅蓮は、裂傷の痕をそこに見つけ、指でそっとなぞった。
「騰蛇?」
「この傷は」
 傷跡に触れる紅蓮の手に勾陣は自分のそれを重ねて、「お前につけられたやつだな」と、事も無げに言った。
 数ヶ月前、出雲で封印が外れた騰蛇を止めようとした時に彼の神気によってつけられたものだ。かなり薄くなってはいるが、完全に消えてはいない。本人に言いはしないが、額の髪で隠れているところにあるものも、まだ残っている。そちらは本人に言うと変に気にするだろうから言うつもりはないが。
「気にするな、過ぎたことだ」
「いや、気にするなって…あの時責任取れと言ったのは勾だろうが」
「責任を取れと言った覚えはないぞ。覚悟しろと言ったんだ。それに、あれは顔の傷の話だ。こっちはいいんだ、別に」
 顔の傷、という言葉に紅蓮はぴくりと片眉を跳ね上げた。しまった失言だったかと勾陣が後悔した時には既に遅く、紅蓮は勾陣の身体を 反転させて自分の方に向けると頬に手を添えてもう片方の手でその前髪を掻きあげた。髪の生え際の、普段は隠れて見えない部分に走る傷痕が顕わになる。
 紅蓮は無意識に苦い表情をした。十二神将中紅蓮に次ぐ力を持つ勾陣も、女性なのだ。女の顔に傷をつけてしまったというのは、かなりまずいのではなかろうか。
 ついでに、今回落としたことに関してもどうやら勾陣は怒っているらしく三倍返しだと言われた。一体どうやって責任を取ればいいのだろうか。
 ぐるぐると際限のない思考の渦にはまって黙り込んだ紅蓮に、若干の呆れを含んだ声がかけられる。
「こら騰蛇。勝手に自分の世界に入って勝手に悩むな」
「あーいやーその、俺はどうすればいい?」
 よくよく考えてみると五十年前の出来事以来、勾陣には借りを作ってばかりな気がする。それこそ数え切れないぐらい、紅蓮は彼女に救われてきた。それに対して何もしないでいるのは自分の気がすまない。
「いい加減、溜まりに溜まった借りを返さないとな」
「随分と唐突だな。それなら私だって、お前にいくつか借りがあるぞ」
「それはそうかもしれんが」
 やはり、何かしらの形で借りを返しておきたい。しかし悲しいかな、何をすればいいのかさっぱり思いつかない。
 もうどうにでもなれと半ばやけくそになった紅蓮は、お互い様だ、と言った頭一つ分は低い位置にある彼女の唇に、掠めるように口付けた。
「っ、騰蛇!卑怯だぞ」
「たまにはいいだろ、これぐらい。とりあえずこれで許してくれ。何も思いつかなかったんだ」
「ほう…」
 目を細めた勾陣の口の端がゆるりと持ち上げられた。深い黒曜の瞳に、どこか楽しげな光が宿る。
 あ、しまった、と思った時にはもう遅い。
「では更に貸しを作ってやろう」
 そう言うと、勾陣は何事かを反論しようとした紅蓮の肩に手をかけ、腰を浮かせた。
 やられたら、やりかえせ。
 目を見開いたまま絶句している十二神将最強の男の顔を眺めて、二番手たる彼女は喉の奥で笑った。

fin.

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08.5.06.