萩の月




 庭草の中で鳴く虫の音がかすかに風に乗って漂ってくる。楽人が奏でる笛や琵琶の音色にかき消されてしまいそうなあれは鈴虫かそれとも蟋蟀か。そんなことはどうでもいいかと思い直して、勾陣は屋根の上で足を組んだ。立派な桧皮葺のそれは、安倍家のものではない。下方に視線を転じれば、宴席の隅っこでがちがちに固まっている昌浩が見て取れた。その傍には物の怪に変化した同胞の姿もある。
 左大臣藤原道長の東三条邸にて催された観月会に、是非にと請われて昌浩も招かれた。名目上は祖父晴明の供だが、道長としては晴明の後継者と目す昌浩の存在を集まった公卿らに植えつけるつもりなのだろう、と勾陣やそして騰蛇も考えている。実際、酒の回った殿上人たちは昌浩に興味津々の様子だ。あれこれと話しかけているものの、極度の緊張状態にある昌浩にまともな返答ができるはずもなく、それらの相手はもっぱら晴明になっているが。
「……ひとの関わりとは難儀なものだな」
 煌煌と明るい望月を見上げて呟く。護衛を命じられて着いて来たはいいが、そろそろ退屈になってきた。宴はまだまだ終わりそうにない。さて、と口元に手のひらを当ててから、勾陣は軽やかに屋根から跳び下りた。

 権力者の邸らしくよく手入れされた庭には、適度に秋の草花が残されていた。恐らくは北の方や屋敷の姫君たちのためであろう芒や萩、それに女郎花といった七草にも属する草を、勾陣は一束ずつ拝借していく。露草に手をかけたところで、背後から見知った気配が肩に伸しかかった。
「なにやってるんだ、勾」
 耳元で喋る物の怪に「見てわからないか、花泥棒だ」と応じて露草を手にした筆架叉で切り取った。
「それはわかる。……俺が聞きたいのはなぜ、だ」
「たいした理由などないさ。ただ、な……」
 彰子姫に持って帰ってやろうと思って。
 笑みを唇につくりながらそう言うと、夕焼けの瞳がきょとんと見開かれた。
「その間抜けな顔を何とかしろ。そんなにおかしいか?」
「いや、おかしくなんかないさ。ただなんというか、意外だったというか……うん」
 かしかしと前足で器用に頭を掻いて物の怪はひょいと地面に降りた。
 今日の宴に晴明や昌浩が列席すると聞いて、彰子は嬉しそうに、けれども少しだけ寂しさを滲ませて行ってらっしゃい、と言った。帰ったら、お話聞かせてね、とも。
 二度と生家に足を踏み入れることのできない彼女のことは昌浩もいたく気にかけていた。昌浩にできるのは、宴の様子を、彰子の父道長の有様を語って聞かせること。それならば我々神将にだってできることがある。彼女が育った邸の草木を持ち帰ることぐらい赦されるはずだと考えるのは、勝手だろうか。
「まぁ、あれだな。道長だって気づいてもなにも言わんだろ。あれはあれで彰子を常に気にかけているからな」
 ちらりと宴が設けられている釣殿の方を見て、物の怪は呟いた。それから軽やかに跳ねていったかと思うと戻ってきたときには紫の小菊を咥えていた。
「そういうことだ。……これぐらいあれば十分かな」
 小菊を受け取り一抱えほどになった秋草を見下ろして、勾陣は笑みを唇に乗せた。
「私は一度安倍の邸に戻って姫にこれを渡してくるよ。ということで騰蛇、あとは任せた」
「おう」
 ひょこりと前足を掲げた物の怪姿に背を向けて、塀を飛び越えた。月影に照らされた都大路は人気も妖の気配もなく冴え冴えとしている。傾いた月を見やってだいたいの刻限を計り、勾陣は安倍邸へと向かう。まだ彰子は起きている時分だ。残っている神将らと月を眺めているやもしれないから、この手土産を渡して、そしてどんな顔をするのかが見たい。天后に頼めばしばらくは生き生きとした姿も楽しめよう。
 果たして、彼女は喜んでくれるだろうか。

fin.

2010.9.30.