拝啓、向日葵のころ
海津島は、その名の通り伊勢海に浮かぶ小さな島である。いくら年中四方から海風が吹くとはいっても、夏はそれなりに暑い。
神への祈りを終えた斎は、東の棟の奥まった部分にある部屋に面した濡れ縁に腰を下ろし、足を投げ出していた。宮を何度も増改築を繰り返されてできたこの部屋は他の棟からはかなり離れたところに位置しているので、神官らの気配もほとんど届かない。
軒が強い日差しを遮っているために、すっぽりと影の中にいることができる。夕刻になれば風向きが変わって海風が吹くのだが、日の高いこの時刻ではまだ気温が高く、湿り気も多いのがやや難点だが、それでもとても居心地のよい場所だ。
だらしのない様を阿曇が見たら、もっと慎みをお持ちください、と眦を吊り上げて叱るに違いない。容易に想像がつき、密かに口元を緩めていると、案の定背後から「斎さま」と呆れた声がかけられた。
「気を抜いた格好をするな、と言いたいのであろう」
先手を打ってそう言うと、「わかっておられるのでしたら、そうなされませ。仮にも貴方様は玉依姫であらせられるのですから」と幼い頃から世話を焼いてくれた神使はため息を吐いた。
「もっとも、度会らの前でさえきちんとした振舞をなさってくだされば、それでよいと思いますが」
それまでとはやや口調を変えた阿曇に「ならば、よいではないか」と応じ、斎は玉依姫の名が表立って負うものも、その座を継いだ時分より比べて随分と軽くなったのだから、と胸の内で付け足した。
斎宮制度そのものがなくなり、最後の斎宮が伊勢を去ってから幾歳もが過ぎた。影伊勢に仕える神官らも、徐々に数を減らしている。いつか遠くない頃には海津見宮の存在すら本土の神宮から忘れ去られてしまうであろう気がする。そんな中にあっても、玉依姫という称号と共に斎は変わらずにそこにあり続けている。それは、根源神たる天御中主神の意思が介在するからに他ならない。
束の間ぼんやりと思考を巡らせていると、いつの間にか廊から庭に降りた阿曇が手にしていた桶を足元に置いた。満たされた水が陽光を反射して眩しく煌く。
「井戸水を汲んできました。涼を取られますかと思って」
「ありがとう、阿曇」
その気遣いに感謝の言葉を述べて、そっと足先を水に浸した。きんと冷えた井戸水が、火照った足に心地よい。
斜め後ろに控えた阿曇と共に、しばしの間交わす会話もなく叢に鳴く蟋蟀と蝉の音を聞いていた。
「……今年も、よく咲いておりますわ」
「ああ……」
感慨深げな阿曇に頷き、斎も視線を上げた。日影から見る外の景色は、いっそう眩しく目に映る。
斎の背丈を優に越し、阿曇や益荒さえも見上げるほどに伸びた向日葵が夏の庭で盛りを迎えていた。日輪を模したかのような黄色い大ぶりの花が、綿雲の浮かぶ夏空に映える。外つ国から伝わったこの花が庭に植えられたのは果たしていつのことだったか、記憶も定かではない。ただ、それを目にした時、斎はまるで天照大神が降臨したようだとひどく感銘を受けた。以来、祭壇での祈りを終えると日中をこの部屋で過ごすことを斎は殊の他好んでいる。
ぱしゃん、と爪先で水を蹴り上げた斎はそういえば、「益荒は?」と首を少し傾けた。
「先ほどまで共にいたのですが……どこへ行ったのやら」
益荒が何の言伝もなしに勝手に姿を消すことは非常に珍しい。あれは、斎の傍にあることを至上としているような男だ。
「なにを、しておるのだろうか」
はてさて、と口元に手をやったとき、ぎしりと廊が軋む音と、よく知った気配が近づいて来た。斎と阿曇は同時に顔を上げ、その姿を視界に入れた。
潮風で色が抜け、赤味がかった黒髪の持ち主が渡り廊下を静かに歩いてくる。
「益荒、どこへ行っていたのだ?」
長身を見上げた斎は、ふと瞬きををして男の手にあるものに視線を移した。それは、と言いかける前に察した益荒が膝を折り、口を開く。
「あちらの庭で咲いておりましたので、部屋に飾ろうかと」
「百日紅、か。……見事だ」
ほう、と感嘆の声を上げる。陶器の花器に無造作に挿された枝に、たわわに薄紅の花房がついている。深い色をした瓶の釉薬が、鮮やかさを引き立てていた。
益荒が百日紅を縁と室内の境目に置く。本来の私室ではないために必要最低限の調度しか置いていない殺風景な部屋にあって、そこだけ別次元のように色彩が加わった。
「枝を挿すのに頃合の器を探しておりました。お傍を離れまして申し訳ありません」
膝を折り益荒は丁寧に詫びる。
「よい。……ありがとう、益荒」
首を振った斎は花に触れてみようかほんの少し躊躇った。たくさんの花がついた房は近くで見るとやはり繊細で、散ってしまわないだろうかと迷ったためだ。
結局、縮緬のような花びらをそっと突くだけに留めた。口元に淡い笑みを乗せながら身体ごと庭に向き直ったとき、鼻先を何かが掠めた。
「おや……珍しいものが」
百日紅に誘われたのか、ひらりと部屋に舞い込んだのは大きな黒揚羽だった。花の周りをふわふわと飛ぶ様はいかにも優雅で、美しい。けれどどこか不気味で物悲しく思えるのは、盆の頃の黒揚羽はひとの魂を運ぶと言われるせいかもしれない。
そのうちに黒揚羽は斎の顔の近くを飛び始めた。試みに指先を伸ばしてみるが、届くことなく寸前でかわされる。
ひとしきり舞うと、黒揚羽は舞い上がり、向日葵の茂みへと向かっていった。離れ際に蝶が羽ばたいた時、斎は懐かしい薫物の香を嗅いだ気がした。
「かあ、さま……?」
ぽつりと落とした呟きを聞きとがめ、益荒と阿曇がはっと表情を変えたのがわかった。言霊に乗せてしまったために、平静を保ち続けようとした心の臓が意思に反して騒ぐ。
母が、蝶の姿を取って戻ってきたのかもしれない。そんなはずはないのに。母は、結局ひとであるうちに生を終えることができなかった。終らせることが、できなかった。だから輪廻の輪に戻ることもできない。
「斎さま……」
「気に、するな。詮のないことだ」
首を緩く振り、斎は目を伏せた。水に浸した爪先が波紋でゆらりと歪む。
では、母はどこへ行ったのだろう。幾度も幾度も考え続けたことが、ふとまた頭をもたげる。
輪廻の輪から外れ、海へ、帰ったのだろうか。海神の元へ泡となって帰った母は、今でもどこかで己を見ているのやもしれぬ。そして、ほんの一時だけ蝶の姿に身を変えて舞い戻ってきたのだとすれば ……
「わらわの姿は、どう映ったのであろうな」
「きっと、姫は元気な斎さまを見てさぞやお喜びになられたことでしょう」
脈絡もなく放った呟きを拾い上げた阿曇がそっと髪を撫でてくれる。その優しさに縋りつきたくなるのを思いとどまり、斎は水から足を引き抜いた。
部屋に入り、文机の引き出しから小刀を取り出した。刃に映る自分の顔を見、再び縁に戻ると転がしてあったままの履物に足を差し込んでから庭へ下りた。
容赦のない陽光に、視界が白く霞む。袖を顔に翳し、幾度か瞬きをしながら庭の中でも一際存在を主張している花の元へ進んだ。
大ぶりの黄色い花の群れは、斎の背丈では下から見上げると圧迫されているようにすら感じる。硬い毛の生えた茎に手を添え、小刀を握るもう一方の手をそこに宛がうと、ざくりと音を立てて向日葵は斎のものになった。
同じ動作を二度三度繰り返し、両手でどうにか抱えられるほどの束を作ると、斎は庭を回り棟伝いに歩いた。今まで黙っていた益荒と阿曇がさすがに腰を上げ、同行する姿勢を見せるので、視線だけで促した。神使の二人が何も言わないのは、それが二人なりの優しさだからだ。
目立たないところにある木戸を抜ければ、草むらの中に獣道に近い小道が続く。この先は、島の岬へ伸びている。
斎の腰を隠すまでに茂る夏草が衣に纏わりつき、歩みを妨げる。加えて向日葵を抱えているのだから、どうしても覚束ない足取りになってしまう。前を行く益荒が何度も肩越しに物言いたそうにこちらの様子を窺っているのを、斎は気づかなかったことにして、袖ごと茎を抱えなおした。次第に項の辺りが汗ばんでくるが、岬までの距離はさほどない。
常よりも時間をかけて辿りついた岬の突端では涼しげな風が海に向かって吹いていた。腕の中の向日葵が風に煽られ、斎の衣と髪を揺さぶる。風が止むのを待ってから、そろりと顔を上げ伊勢海を視界に入れた。縹色の海は今日も穏やかにそこに存在している。
「この海のどこかに、母様はおられるのだろうか……」
波の底にあると伝えられる宮に眠っているのであろうか、あるいは海と一つになっているのか。どちらにせよ、母はこの海にいる。その思いが、斎にとって重要なのだ。そっと目を閉じ、脳裏に浮かべた母の顔に祈りを捧げる。
「吾が君の望まれます限り、わらわはこの務めを果たす」
「御意に。では、我らは斎さまのために、お傍におりましょう」
阿曇が柔らかな視線を向け、頭を垂れた。益荒も声には出さないが阿曇の言に首肯する。
喉の奥からこみ上げてきた熱いものをどうにか飲み込み、「……ありがとう」と言った声が掠れた。
玉依姫―母様。わらわはこうして今、無事に役割を果たしております。これからも見守っていてくださりますよう、どうか ……
心の声に呼応するように、背後から強い風が一陣吹き抜けた。
斎は手を目いっぱいに広げ、向日葵を投げ上げた。太陽よりもなおくっきりとした黄色が青空へ舞い、海面目指してはらはらと落ちていった。
fin.
8/23 雨雫の加月さんへサイト2周年のお祝いに