ひとつだけちょうだい





 昨日の昼間のことを思い出す。天后と勾陣、それから仕事が休みの風音を誘い、実年齢はさておき外見ではさして変わらぬ女三人が集まりカフェでちょっとしたお喋りを楽しんでいた。風音と六合は近頃どうなのだ、というからかいから、自然と話題は翌日に迫ったバレンタインデーへと移っていった。
「……どうせ今年も六合は山ほどチョコをもらってくるんだもの」
 カフェラテの入ったカップをソーサーに戻し、ふう、と風音はため息をついた。
 彼女は、人前ではそれが例え神将たちであろうとも、六合の二つ名を口にすることを憚っている。「去年も、一応手作りであげたんだけど……」とやや唇を尖らせて呟く道反の姫の眉は次第に下がっていく。彼女とは千年前に色々と諍いがあったがなんだかんだで天后は許している。主の命を狙ったり騰蛇の身体を乗っ取ったりとそれはもう色々あったが、その後はこちら側のために尽くしてくれた。それに、今まで親しい女性が勾陣しかいなかった天后にとって、同じような見た目の風音は貴重な存在だ。自分が頑なであることは認めるが、最近少しは柔らかくなったのではなかろうか。そんなことを考えながら、天后は淡く微笑む。
「大変ですね」
「まったく、辛いものだな。もてる男を恋人にすると」
「勾陣……そういう言い方されると、私が一方的に好きみたいじゃない」 
 もう、と眉間に皺を寄せてみせた風音に、勾陣と顔を見合わせた。今、さり気なく惚気られたのよね、きっと。たぶん。目だけでそんな会話を交わして、天后は温くなったロイヤルミルクティーに口をつけ、クッキーを囓った。
「そういう関係になれただけ、羨ましいと思うわ」
 二対の視線がこちらに向かうのを感じながら、それでも天后は言葉を続けた。だって私なんて、相手にどう思われてるのかもわからないし、そもそも彼に恋愛、なんていう人間くさい感情なんてあると思う? 千年ぐらい一緒にいたら何かしら変わるんじゃないかって思ったときもあったの。でも、やっぱり彼は私のことを攻撃力の低い足手まといの仲間としか思ってないのよ、きっと。もしくは勾陣の前でこんなこと言うのもなんだけど、騰蛇許せない同盟? みたいなのかしら。とにかく、青龍は違う次元で生きてるんだわ。そんな気がしてきたの。だから私ももう見込みのない恋なんてお終いにしようかしら……。
 喋りすぎたせいで喉が痛くなった。ミルクティーを飲もうとして、カップを見たらあと少ししか残っていなかったので、仕方がなくグラスの水に手を伸ばす。冷たい水が体内に染み渡るのを心地よく感じながら、天后はようやく一息ついた。
「天后……なにがあった」
「途中から個人名出てるわよ」
 二人から間髪入れずに切り返されて、あ、と肩をすくめた。
「……ごめんなさい」
「別に、いいんだけど。天后も大変ね、あんな仏頂面をずっと一途に想い続けてるのに報われてるのか報われてないのか」
 で、今年のバレンタインは?勿論あげるのよね? と風音に問われ、「用意は、しようと考えてるんです」と返事をするのが精一杯だった。
「今年は日曜日だし、帰ってくるから」
「というか、明日だぞ。これから買いに行くのか?」
「えぇ。勾陣は? 騰蛇にあげないの? チョコ」
「私がそんなことすると思うか?」
「そんなことだろうと思ってました」
 二人を見ていればだいたい想像はつく。「みんな、苦労してるのね」と風音が首を傾げて笑う。
「チョコ、買いに行く? 私も自分用に買いたいし」
「行くか……」
「はい」
 結局この面子の中で一番まともな恋愛をしている風音の提案で、まずは百貨店の催事場に行ってみようということになった。

 回想の海から思考を引き上げて、天后は再びため息をついた。チョコレート売り場はそれはもうもの凄い人出で、その場にいるだけでも目眩がしそうだった。それでも、何故か乗り気の風音に押し負けて、結局箱入りのチョコを買い求めた。四角や丸のころりとしたそれらは、一番甘くなさそうなものを、と選んだ結果だ。
 彼は、六合みたいに沢山のチョコをもらって帰ってくるのだろうか。バレンタインデーが日曜日だから渡すならきっと昨日。天后は、青龍がチョコをもらったのかどうか知らない。ちょうど二人とチョコ売り場にいる間に彼は帰宅していて、天后が安倍家に戻ったときにはすっかりラフな服装で荷物も片付けていたのだ。彼は受け取ったのかしら。それらの、想いを。そういえば去年のバレンタインはどうだったっけ、と思い出そうとしたが記憶にないのは、ちょうどその日に緊急事態発生とかで、週末にも関わらず青龍が帰ってこれなかったからだ。
 ぐずぐずとしている間に、気がつけば夕食は終わり、朝からろくに青龍と顔を合わせることができないまま、そろそろ就寝、という時間になっていた。あと1時間もすれば、今年のバレンタインデーは終わってしまう。いっそ、渡さないで自分で食べてしまおうか。きれいにラッピングされた箱とにらみ合いをしながら、そんなことも数度考えた。
「天后、あまり考えすぎるなよ」
 おやすみ、と言い置いて勾陣が苦笑しながら去っていった。
 特に読みたくもなかった本を開きながら、時間が過ぎるのを待つ。あと少しだけ。その間に青龍が来なければ、このチョコはなかったことにしてしまおう。そう決めて、きりりと痛む心の臓を宥めて何度も壁の時計を確認した。
 時計の針が11時30分を過ぎたころ、台所のドアが開いた。
「……まだ起きていたのか」
「せ、青龍……」
 慌てて箱を隠し、天后は椅子から立ち上がった。まさか、このタイミングで、現われるなんて。落ち着きかけていた鼓動が瞬く間に跳ね上がる。
「えぇと……お茶?」
 無言で頷いた青龍を横目に、あたふたと湯を沸かし急須を用意しながら、内心ではこの場から逃げ出したくてたまらなかった。半ば棄てかけていたチャンスが転がり込んできたのに嬉しさはなく、むしろ緊張と戸惑いの方が強い。
 夜中だから、と焙じ茶を選び茶筒を開けようとしたとき、背後から「天后」と声をかけられ、危うく茶葉を飛び散らかしそうになった。
「な、なんですか?」
 返答はしたものの、顔は見ずに茶を淹れた。下を向いたまま湯飲みに茶を注ぎ、青龍の前に置く。そこでようやくそろそろと視線を上げていくと、常に不機嫌そうな顔をした同朋は椅子に座りもせず右手に箱を持っていた。
 天后が隠そうとして隠しきれなかった、チョコレートの箱を。
「そっ、それ……!!」
「そこに置いてあったが」
 自分用か? 珍しく、問いを投げかけられて、天后は言葉に詰まった。今が、チャンスなのだ。ここで、それはあなたに、と言うべきなのだ。けれど、色素の薄い鋭い瞳に射貫かれて、喉が閉じてしまう。
「あ、あの……それは、昨日……勾陣、と一緒に買ってきて」
 違う。そんなことはどうでもいい。ばくばくと早鐘を打つ左胸が痛い。言わないと。
「……天后?」
 ぎゅっと瞼を閉じる。ほろりと涙が頬を伝った。
「…………あなたに」
「は?」
「それ、青龍に……です。あの、バレンタイン……他の人からもいっぱいもらってるでしょうけど、わたしからも……い、いらなかったら、置いといてください。あとで、食べますから」
 みっともないぐらいに声が震えていて、聞こえたかもわからない。
「ごめんなさい……っ」
 理由もなく謝って足早に逃げようとした、その腕を捉えられる。
「せいりゅう……」
 はなしてください、と囁いた嘆願は聞き入れられなかった。腕を掴まれたまま天后はひたすら俯いていた。また、機嫌を損ねてしまったに違いない。
 呆れたような嘆息が耳に届き、大げさなぐらい肩が震えた。
「……誰が、チョコをもらったって?」
 問う声は、怒っているようにも聞こえる。
「あなたが……職場で」
「あんな得体の知れない女どもから受け取ると思っているのか。……そもそも俺はこれでも一応藤原道長の護衛だ。受け取る暇などあるはずがない」
「そう、なんですか?」
 そこで天后はようやく顔を上げた。きつく眉根を寄せた端正な顔は、真剣な色を湛えている。
「そうだ……チョコなど、受け取ってなどいない。渡そうとしてきたやつがいたが、追い返した」
「……そう、ですか」
 呼吸を繰り返している間に、青龍の言葉が浸透し、ようやく理解するに及んだ。つまり、彼は誰からもチョコをもらっていないのだ。嘘をつくような性格でないことは知っているから、それは本当なのだろう。
 頭が冷えてくるにつれ、自分の失態が鮮明に思い出される。羞恥でかっと頬が熱くなるのを感じながら、天后は「ごめんなさい」ともう一度項垂れた。
「一々謝るなと何度言えばわかる」
「ごめ……はい」
 捉えられていた腕が解放され、意味もなく掴まれたところに触れた。
「それで」
 相変わらず表情は崩れないまま、青龍が目の高さまで小箱を掲げた。
「これは食っていいのか」
「えっ……ええ……」
 当たり前だ。そのために買ってきたのだから。ぎこちなく頷くと、青龍の長い指が包装を剥がしていく。行儀よく並んでいる褐色の塊を一つつまみ上げ、眺めてから口に放り込んだ。
「……意外と苦いな」
「あ、甘くないのを選んだつもりだったんですけど……」
 苦すぎましたか?と不安になってチョコと青龍の顔を交互に見比べた。
「……試すか?」
「え?」
 不意に、青龍の瞳が何事かを企むかのような光を宿して近づけられる。近すぎる距離に息を呑み、あの、と開きかけた口をふさがれた。合わさった唇から、カカオの苦みとガナッシュのアルコールの香りが広がる。真っ白になった頭の片隅でどうにか考えることができたのは、瞼を下ろすことと、彼の二の腕にすがりつくことだけだった。


 ひとつだけちょうだい



 ひとつだけのチョコレート

fin.

10.2.14.

10.3.19. テキストページに移動