慈しみをひとひら
なぜ、世にホワイトデーなどというイベントが存在するのだろう。菓子メーカーの戦略だからだ。
なぜ、2月と3月は曜日が同じなのだろう。2月は28日までしかないからだ。
なぜ、今年のバレンタインデーは日曜日だったのだろう。そんなことは知るか。ただ、確実なのは、つまりホワイトデーも日曜日だということだ。これがせめて平日ならば自分は安倍の家に戻らないからいいのに、よりによって日曜ときた。人間の考え出したイベントに興味はないし、罪はないが、とにかく憎い。
「ホワイトデー用ですか?」
ショッピングビルの一階、道路に面したスペースにあるオープンな花屋の前で何百回とつまらない自問自答を繰り返していた己の耳に届いた声に、渋々ながらも僅かに頷く。
「でしたら、こちらのアレンジメントなんか、人気ありますよ」
聞いた傍から右から左へ通り抜けていく店員の明るいトークが示す一画を眺めて、やはり止めておこうかとも一瞬思った。
ホワイトデーのお返しなど、あれが期待しているわけがない。長いつきあいからして、こちらがそのようなイベントに対して何らかのアクションを起こしたことなどほぼ皆無だからだ。
要するに現在青龍の脳はどうにかホワイトデーなるものを回避しようと必死に言い訳を思いついている状況であって、それなのにやはりもらったのだから返すべきなのかと少々まともなことも考えている、どっちつかずの非常にややこしいせめぎ合いをしているのである。
目の前には、両の手のひらに乗るほどの箱に入った色とりどりの生花。花の名前は知らないが、いかにも女性が好みそうな可愛らしいものばかりだ。
恐らく、他人から言われでもしない限り青龍はこの日は何事もなく帰宅するつもりだった。そのつもりだった。一昨日までは。
金曜日、職場で顔を合わせた同朋の一人から「伝言だ」と告げられた中身が余計だった。
青龍もよく知る、しかし昔の第一印象以来さしてどうでもいい位置づけにあるその相手は、どうやら先月の時点であいつになにかを吹き込んだらしい。「バレンタインにもらったのならば当然ホワイトデーはお返しをするべきだ。いい加減進展しなさいこのツンデレ、相手の気持ちも察してあげるべき」と一字一句違えず淡々と再生した六合の寡黙な瞳がやや同情めいた色を帯びていたのが青龍の眉間の皺を更に深くした。
バレンタインに天后からチョコをもらったのは紛れもなく事実である。ではそもそもホワイトデーには何を贈るのかと六合に問い詰めてみたところ、無難なのは食べ物、たとえばクッキーなどの菓子類か花だろう、とのことだった。身につけるものも主流だが、相手が神将なのだからそれはどうだろうか、とも。
そして14日の今日。本来なら金曜に安倍家に戻るつもりだったがよくある不測の事態により帰宅できず、日曜日になってようやく道長の元を退出してから、いつものように駐車場に行こうとして、はたと一昨日を思い出した。
疲れているからさっさと帰りたいのが本音で大層不本意だが、気が向いたからと理屈をこじつけて、近くにあるのを知っていた花屋へと赴いてみれば、案の定ホワイトデーキャンペーン真っ最中だった。
そうやって青龍が店頭で悩んでいる間にも仕事帰りのサラリーマンや若者たちが次々とやって来ては花を購入していく。
彼女は、花は嫌いではないはずだ。昔も庭に花を植えていたし、愛でてもいた。以前百合の花束を押しつけたときも嬉しそうにしていたから、間違いない。そういえばこの状況はあのときによく似ている。あのときもそういえば……
「お決まりでしたらどうぞ」
つい逃避に走りかけた思考を無理矢理戻し、青龍は一つ一つ微妙に異なるフラワー・アレンジメントを見回した。
「これを……」
指さしたのは、白を基調とした淡い彩りのもの。華やかすぎず地味すぎずといったところか。もう後戻りはできない。会計を済ませながらふとそう思った。
用意するまではいい。問題は、これをどうやって渡すかだ。極力騰蛇や騰蛇や勾陣とか勾陣とかに見つからないようにはどうすればいいか。なかば注意力散漫気味に車を運転しつつ考えて、気がつけば安倍家だった。
まあ、いいか。どうにでもなれ。
玄関扉を開けて上がり框に足をかけたところでその気配が向こうからやってきた。
「おかえりなさい、青龍。お疲れさま」
危惧せずとも出迎えるのはほとんど彼女だ。そんなことに気づかないほど平常心を失っていたらしい。
「着替え、もらうわ」
「ああ」
ついでにとばかりに花の入った紙袋も手渡してしまって、足早に天后の傍を通り過ぎた。後ろは振り向かない。これでいい。何も言わずとも今日が何の日かわかっているはず。万が一わかっていなければこれ以上の失態はない。その可能性を考慮することを失念していたが渡してしまったものは仕方がない。
手っ取り早く言えばその場から逃げ出して、部屋に向かいスーツを着替えていると控えめなノックの音が静かな室内に響いた。一枚隔てた向こうに誰がいるのか、わざわざ開けずとも気配でわかる。ドアノブに手をかけて押し開けた先には予想通りの顔があった。
「あの、青龍、さっきの花……ありがとう」
「ああ」
「それで……」
伏し目がちに言葉を発した天后がついと視線を上げた。
「目、閉じてください」
「……は?」
「いいから、閉じてください!」
唐突な要求にやや面食らいながらも、渋々言われたとおりにする。視覚がなくても気配で彼女が何をしようとしているのかぐらいはわかる。二の腕に細い指が触れ服を掴む。そのまま踵を浮かせて、ぐっと距離が近くなったと思えば、柔らかいものが頬に触れた。
予想外の行動に硬直したのも束の間瞼を上げると、すぐそこにある瞳と視線が合わさった。
「あ、開けないでください……!恥ずかしいから!」
色素の薄い髪の隙間から覗く耳が赤い。離れようとする指を絡め取り、今度はこちらからキスを仕掛けた。
fin.
2010.3.14.
2010.3.19. テキストページに移動