背中越しの月
夜空にぽっかりと浮かぶ黄色い月は、ともすると人工的な灯りに負けてしまいそうだが、
それでもしっかりと、その存在を示している。今日は、中秋の名月だ。
千年前は、やれ観月の宴だ、管弦の遊びだだのと、大層な行事の日だったが、今ではそんなものは、無いに等しい。月見団子を片手に月を見るのが関の山と言ったところ。
この安倍の家でも、毎年のように月見の宴、と称して、ささやかな酒宴を開いてきた。もちろん、お子様組みは、団子だけだが。
安倍家の面々がすっかり酔い潰れ、寝静まった気配を感じながら、紅蓮は一人、屋根の上で月を眺める。
昔も今も変わらぬ仄かな光が、柔らかに街を包み込んでいる。
「…いや、平安の頃の方が、もっと明るく見えたな」
完全な闇夜の中の望月は、それはそれは美しかった。やはり、現代では、ネオンなどがある分、弱く感じるのだろうか。
そんな事をつらつらと考えていると、ふと、背中に温かな重みが加わった。同胞の、その中でも、自分にとっては一番馴染みの深い気配。
「……勾?」
「何を、しているんだ?」
「別に……ただ、月を見ていただけだ」
「ほう…あの騰蛇に月見などという風流な心があったとは。意外だな」
「悪いか」
憮然として答えると、彼に背中を預けている勾陣の背が、少しだけ揺れた。見なくても分かる。大方、笑っているのだろう。
と、紅蓮の目の前に、すっと一升瓶が差し出される。反射的に受け取りラベルを見ると、伏見の銘酒、しかも限定品の大吟醸だった。
「どうだ?月見酒といこうではないか」
「いや、月見酒って、お前。これ全部飲み干すつもりか?」
「どうせ我らは神将なのだから、酔わないだろう。それとも、私の酒が飲めないとで
」
「分かった!分かったから!!」
これ以上勾陣に喋らせてはいけない。永年の付き合いと本能で察した紅蓮は、大人しく盃を受け取り酒を口に運んだ。流石に大吟醸だけあって、味は上々だ。
「おい勾、この酒はどうしたんだ?」
「あぁ?晴明の酒蔵の中にあった秘蔵の一本だな」
「……くすねて来たのか……?」
「失敬な。黙って拝借して来ただけだ」
それを世間一般ではくすねると言うのではないだろうか。そう心に思っても、決して口には出さない。折角の酒を血に染めるような真似は、できればしたくはない
中天にかかっていた月は、だんだんと傾き、それに比例して、瓶の中身も減っていく。
「なあ、お前、月見てないだろ」
ふと、紅蓮は今まで疑問に思っていたことを、勾陣に問うてみた。
今、月は少し西に傾いたところ、紅蓮の目線の先にある。初めから紅蓮はそれを眺めながら酒を呷っていたが、では、勾陣は?
ずっと背中合わせなのだから、紅蓮とは反対方向を向いている事になる。当然、月は見えない。
「気にするな」
「いや、気にするなって…月見酒だと言い出したのはお前だろう?」
「だから気にするなと、言っている。私はこのままで構わない」
薄く微笑した気配があって、勾陣が頭を肩口に凭れさせてきたのが分かった。癖の無い髪が零れて、少しくすぐったい。
何の警戒心も無く、背中を預けられているという優越感と、ちょっとした悪戯心から、紅蓮は身体の力を抜いて、さっと横にどいた。バランスを崩して倒れ込む勾陣は、しっかりと腕で抱えて。
「騰、蛇……っ」
勾陣が、その瞳に非難の色を滲ませて、紅蓮を睨みつける。
あ、まずいなーとは思うが、ここで手を離すと勾陣が屋根から真っ逆さまだ。紅蓮はこれから起こりそうな気がする我が身の危険にはあえて目を瞑り、しっかりと彼女を抱き締めた。
「何をするんだ、お前は!?」
「すまん」
珍しく動揺する勾陣に、とりあえず素直に謝罪をして。
紅蓮は腕の中に酒瓶と勾陣を抱えたまま、何とか姿勢を立て直した。
「……で、何がしたかったんだ?」
「月を独りで観たって、面白くも何ともないだろうが」
「ならば初めからそうと言えば良いものを」
「できるか」
「だろうな。そんな事をした次の日にはきっと赤い雪でも降るだろうて」
小さく声を上げて笑う勾陣の頭を、軽く小突いて、紅蓮は頤をそこに乗せた。
とりあえず、何故だか分からないが、勾陣は機嫌を損ねていないようだ。
「ほら、騰蛇。酒をよこせ」
「……」
まだ口元に笑みを浮かべたまま差し出された盃に酒を注いでやり、紅蓮は自分のものにも酒を満たす。
美しい朱塗りの盃にはゆらゆらと望月が漂っていた。
fin.
かなり遅くなってしまいましたが、お月見です。
そして今回は珍しく紅蓮の受難もなく、ほの甘い仕上がりになりました。
Photo :
clef
05.10.01.
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