なつのひ




なぎさにてまつ(斎)


 物心ついた頃から耳慣れた波音に混じり、海鳥がニャアと高い声を上げて目の前を滑るように横切った。
 沁みるような眩しさに目を細めながらしばらくの間その軌跡を追っていると、小さな白い影はゆったりと風に漂い、やがて煌く海面と空の中に消えた。
 晴れた夏の伊勢海は穏やかで、遠くに漁師の小船が数艘浮かんでいるのが見て取れる。緑青の海面はあるところを過ぎれば青鈍に色を変えている。あそこから海が深くなっているのだと、以前阿曇が教えてくれた。視線をずらせば、陸地の緑が霞んで横たわっていた。見慣れた景色ではない。が、それが新鮮で、斎はゆっくりと瞬きをしてそれらの全てを視界に収めようとした。
 ざあ、と波が岩に砕けるのではなく、もっと穏やかに打ち寄せる音が耳に響く。物心ついたころから親しんだ潮騒が、心なしかすこし違って聞えた。岩場と断崖ばかりの海津島にあって、ここは数少ない、ほぼ唯一の砂浜であった。
 岬からの彼方までも見晴るかすような眺めも好きだが、ここからの水平線の眺めも悪くない。
 日除けにと益荒が被けた衣が海風を受けてはためく。その当の益荒はといえば、半刻ほど前に斎が帰したのでこの場にはいない。くれぐれも危ないことはなされますな、と言い含めるように忠告した従者の気配が遠ざかるのを待ってから、斎はそっとこの場にやってきた。
 何やら悪戯を成功させた童のような気分になり、ふと口元が緩む。こんな風に、以前からは比べ物にならないぐらいに自由に行動できる日が来ようとは、ついぞ思ってもいなかった。
 息苦しさばかりを感じていたあの頃のことは、折に触れて記憶の中から引き出される。
「姫……かあ、さま」
 この広い綿津見のどこかに、母の魂もあるのだろうかと思いを巡らせかけて、否、と首を振った。母は、あの方は    
 決して忘れえぬ光景が去来する。ずきりと痛んだ左胸を無意識の内に衣の上から押さえ、斎は努めて平静に息を吸い込んだ。潮の香がぷんと鼻につく。
 衣の裾が汚れぬよう気を配りながら膝を折ってその場にしゃがみ、波打ち際を眺めていると少し気分が落ち着いた。まだ、自分はこんなにも弱い。
 強くあらねば、と心に誓い、顔を上げた斎の目に、砂の間に光るものが映った。
 手を伸ばして砂を払うと小さな白い貝殻が指に触れる。波に晒されて角が取れ、つるりとした手触りのそれは、きっと元はもっと大きなものだったに違いない。じっと目を凝らしながら砂を弄っていると、あっという間に片手に乗り切らないほどの貝が集まった。
「あ……」
 思いの外大きな波が押し寄せ、斎の爪先と衣の裾を濡らした。これではあとで阿曇に叱られる。
 ああ、そうだ。益荒は、今頃なにをしているだろう。そろそろ迎えに来る頃合だろうか。拾った貝殻を渡してみようか。どんな顔をするだろう。そんなことを考えながら、薄い欠片を日に透かしてみる。鳶が頭上で呑気に鳴いた。




つまらないたからもの(紅蓮+勾陣)


 ようやく伊勢から帰還した紅蓮に説教を喰らった勾陣はやり切れない思いを抱えたまま安倍邸の屋根に腰を下ろしていた。
 激昂して我を見失っていたときに比べれば沈静化した頭では一喝された理由もよくわかっているし、納得もできる。けれど、それとは別の部分で癪に感じているのも事実だった。
「まさか騰蛇に説教される日が来るとはな……」
「おい、どういう意味だそれは」
 苦笑交じりの呟きを拾い上げた物の怪が、膝の上から抗議してくる。風が強いせいで己を風除けにしていた分際で、と理不尽な怒りを覚え、その長い耳を摘んでやった。
「こら!おい!耳を掴むな!」
 牙を剥いた物の怪にはお構いなしに、今度は首筋の毛をぐしゃぐしゃと掻きまわす。
「勾!いい加減に……!」
 じたばたと暴れる白い毛並みから、ぽろりと何かが落ちた。
「なんだ……?」
 衣の上に転がった小さな欠片を勾陣は摘み上げた。淡い紅色をした、薄く小さな貝殻のようだった。なぜこのようなものを騰蛇が持っているのだろう。
「おい、騰蛇、どうしたんだこれは」
「あ?……あー、あぁ、うん」
 途端に威勢の良かった物の怪がしどろもどろと視線を泳がせる。一体何なのだと更なる追求をしようとした時、物の怪が唐突に本性に立ち戻った。
「騰蛇?」
 らしくない行動に、ますます勾陣は眉を顰める。一方の紅蓮はといえば、隣で頭を抱えながらちらちらとこちらの様子を窺っている。はっきりしろ、と言わんばかりの視線を返してやると、ようやくぼそりと口を開いた。
「伊勢の海岸で、拾ったんだ」
「ほう、それで?」
「……お前に、やる」
「は?」
 勾陣は貝殻をてのひらに収めたままぽかんと口を開けた。あまりに突拍子もないことを言われたせいで、あやうく握り潰してしまうところだった。
「だから、勾にやると言ったんだ!」
 濃色の髪の隙間から覗く褐色の耳が心なしか赤くなっている。こみ上げてくる笑いを喉の奥で留めて、勾陣はそっと逞しい肩に頭を預けた。




のびたかげとゆうひ(紅蓮+昌浩)



 傾いた陽が地面に長く影を落としている。逢魔時を迎えた夏の大路は、家路をゆく牛車や民でなかなかに賑わっている。
 都の南北を貫く主要な路からは外れた人気のない小路で、紅蓮は背に負った昌浩を肩に担ぎなおすべきか思案に暮れていた。
 元はといえば、この陰陽師の不注意が原因なのだ。油断していたばかりに妖の結界にまんまと捕らわれ、一戦を交える羽目になった。連日の寝不足に加えて大内裏帰りで疲れ切っていた昌浩はどうにか妖を調伏したのち、ぱったりとその場に倒れてしまった。
「立つぐらいの気力はないのか」
「あー……力が入らないや」
 ごめん、紅蓮、としょげた声が背中から返ってくる。まったくだと小さく呟き「まだまだ修行が足りんなぁ」と茶化した。
 このままここで油を売っているわけにもいかない。さっさと邸に帰りたいが、人目につくわけにはいかない。やれやれ困ったものだ。
「昌浩、あと少しだけ時間をやるからその間に歩いて帰れるだけの体力を回復しろ」
「……わかった」
 曖昧な返事を最後に、ずんと背が重くなる。どうやら意識を手放したらしい。よくこの状況で寝られるものだと呆れ混じりに嘆息し、ずり落ちないようにしっかりと背負いなおす。
 昔はあんなに小さくて軽かった昌浩が、今ではこんなにも重い。ひとの成長とは斯くも早いものかと驚かされる。
「早く一人前になってくれよ、孫……」
 ぽつりと呟き視線を落とすと、二人分の影が一つになって築地塀に伸びていた。




ひそかなるきずな(紅蓮+勾陣+斎/現代)



 紅蓮が冷蔵庫に冷やした麦茶のボトルを取り縁側に戻ると、斎と勾陣がなにやら会話を交わしていた。
 珍しい組み合わせだな、とその様子を見ながら人数分のコップを出し麦茶を注ぐ。そうこうしているうちに、件の二人は淡い笑みすら浮かべていた。
 同じ闇色の髪と瞳を持つ彼女らだが、接点は今までほぼ無いに等しい。出会いの発端となった伊勢での出来事に勾陣は絡んでいないし、斎は斎で安倍の家に遊びに来ても道反の姫を交えて話をすることが多かった。だから、何がどうなってこの二人の間に会話の切っ掛けが生れたのか、紅蓮は興味を持った。
「お前らいつの間に仲良くなったんだ?」
 コップを手渡すついでに割り込むと、まず勾陣の瞳が紅蓮に向けられ、ややあってから斎がゆっくりと首をめぐらせた。白地に金魚が泳ぐ浴衣に合わせた薄紅の帯がふわんと揺れる。
「たった今だ。なぁ、斎」
「ああ、色々と、わらわの知らぬ話を聞かせてもらった」
 こくりと頷く斎に、何の話をだ、と問い返す。勾陣がする話だ。また碌でもないことをこの少女に吹き込んでいやしないだろうか。
「別に、他愛もない話さ。物の怪になったお前がどんな行動を取るかという考察と分析だ」
「非常に参考になった。あとで益荒にも伝えておこう」
「いや、それのどこが他愛もないんだ。勾、斎におかしなことを教えるな」
「だが、事実であることに変わりはない」
 例えば寝ぼけて柱に頭をぶつけたり、大風の日にうっかり吹き飛ばされそうになったり、それから、と際限なく続きそうな勾陣の口を慌てて遮り、紅蓮は斎の頭にぽんと手を置いた。
「ほら、あっちで花火に混じって来いよ。折角来たんだ。楽しんでけ」
 庭の中心では昌浩や彰子たちが時折歓声を上げながら花火に夢中になっている。あの面子だから、斎もそれなりに気後れせずに混じれるはずだと背を押してやると、見た目よりも遥かに大人びた伊勢の姫は小さく頷き、縁側からそちらに足を向けた。
 気づいた昌浩にたちまち手を取られ、花火を渡されている光景を紅蓮と勾陣は微笑ましく見守る。
「中々面白いじゃないか、あの姫は」
 口元に微笑を浮かべた勾陣は麦茶を飲み干す。
「まあ、多少感情表現が苦手ってとこはあるけどな」
 あれでも昔に比べたらかなりましになったんだ、と付け足して、紅蓮も麦茶に手を伸ばした。
「勾、俺たちもここで花火するか?」
「構わない」
「どれがいい?」
 まだ結構残ってるぞと選択肢を示すと、間髪入れずに「線香花火」との答が返ってきた。

fin.

title by COUNT TEN.