平静




 安倍の家に、ひとりの子供が生まれた。
 老いた主はその子供を見て、これ以上ないほど相好を崩し、言った。これが儂の後継だ、と。
 そして子守役によりにもよってあの騰蛇をつけると言い放ったのだ。
 その話を天后から聞いた勾陣は、ついにその時がきたのだと、胸の内で静かに悟った。

 青龍と天后を護衛に従えて、晴明はとある貴族から依頼された祈祷の仕事へと向かった。吉昌以下、上二人の子供はいつも通り寮へと出仕。露樹は、神将が常に末子の傍で面倒を見てくれていると、その目で確かめたことはないが義父から聞いているため、三条の市へと買い物に出かけたようだ。神気を探ると、どうやら天一と太陰が隠形して同行したらしい。
 異界にいたところで、天空と太裳の話し相手になるぐらいしかすることがなく、何となく暇をもてあました勾陣はふらりと人界に顕現した。
 常の習慣で晴明の部屋に姿を現した勾陣は、よく知る神気と、もう一つ別の気を感じて咄嗟に隠形した。
「騰蛇と…昌浩か」
 いくら騰蛇が平気で顕現して昌浩の遊び相手をしているとしても、彼女は凶将だ。万が一のことがあっては困る。できるだけ神気を抑制して、少し離れたところからそっと彼らの様子を伺うことにした。
 恐らく騰蛇はこちらの存在に気がついただろうが、何も言わないところを見ると問題はないと判断した。
 いたずら盛りの昌浩は晴明が文台に置きっ放しにしていた料紙をいじったり、部屋の隅に山と積まれた書物に向かって突進したりと、中々のやんちゃぶりを発揮していた。
 その度に騰蛇があたふたとしている様は、笑いを誘うものではあったが、同時に言いようのない感覚に勾陣は襲われた。
 あえてその感覚に名をつけるとしたら、寂しさや嫉妬という類のものになるのだろうか。自分がこんな感情を持ち合わせていること自体に驚く。今まで、常に凪のような変化に乏しい理性の中で生きようとしていた勾陣にとって、それは最も縁遠いような感情だ。
 騰蛇が穏やかな表情をする日が来るなど思っても見なかった。 遊び疲れて寝入ってしまった昌浩を見るその視線はひどく優しい。それは、この世に姿を得て以来ずっと傍にいた勾陣でさえ見たことがないものだった。
 こんな騰蛇は、知らない。
「昌浩の力、か」
 時が経てばひとの心も変わると晴明は口癖のように言っていた。
 勾陣はその言葉を信じ、せめてその時までは彼の傍にあろうと、五十年前のあの日に心に決めた。何があっても、自分だけは態度を変えぬと。それは己への誓約と同時に、他の同胞たち、特に青龍への牽制の意味合いも含んでいた。
「私はもう、必要ではないな」
 騰蛇は変わった。これからは昌浩が彼の導となるだろう。そのことを頭の中で認めた時、ざわざわと奇妙に胸の奥が騒いだ。
 平静を保っていたと自分では思っていたのだが、意外と動揺しているらしい事実に、半ば自嘲気味に口元を歪めた。どうやら変わったのは騰蛇だけではなかったらしい。
 彼を変えることができるのがもしも自分であったならなどとはついぞ考えたこともなかった。
 ただ、同胞として傍にいられればそれでいいと思っていた、はずだった。事実、今も騰蛇に対して抱く感情はどちらかと言うと、友情、あるいは戦友という言葉で表すのがふさわしい。
「それでいいんだ…」
 ひっそりと呟いて、勾陣は己の中に見出した想いに向き合うのをやめた。どうにもここ最近、自分らしくない。
 常に冷静に物事を一歩引いた立場から見るように心を平静に保っていろと自分に言い聞かせて、深呼吸を一つした。
 この場にこれ以上いると心の平静が失われてしまいそうで、勾陣は騰蛇と昌浩を一瞥すると異界へと姿を消した。

fin.

昌浩に紅蓮取られて寂しい姐御

07.7.8.