慧斗
昌浩の部屋から少し距離をとった安倍邸の簀子で、物の怪は丸くなって欠伸をした。何故昌浩の部屋に行かないのかと問われれば、自ら進んで馬に蹴られに行くのは御免だからである。折角の彰子との語らいを邪魔してはいけないだろう。ああ、なんて優しいんだろう俺、と白々しく呟いて、ふふんと鼻を鳴らした。
実際のところ、二人きりにしてやりたいというのも理由だったが、目の前で繰り広げられる「もっくん」という呼称についてのやり取りを聴いているのがいい加減厭になったというのもある。
もっくんは物の怪だからもっくんなのだと主張する昌浩に対して彰子は、もっくんはそれでいいって言ったの?そんなに適当に決めたらかわいそうよ、と別の呼び方を考えようとし出した。
気がつけば物の怪はすっかり置いてけぼりで、かといってここで話の腰を折ってこちらに意見を求められても困る。結局物の怪は、こっそりと抜け出してくるという選択肢を選んだ。
あの二人がその事に気がつくのは一体いつになるのやら、と片目でちらりと昌浩の部屋を見遣った物の怪は、傍らに神気が一つ、顕現したのに気付いて首をもたげた。
「勾か。珍しいな、お前がこっちに来るなんて」
「たまにはそういう気分の時もあるさ。で、お前こそ、ここで何をやっているんだ?いいのか、昌浩たちを放っておいて」
高欄に背を預けてその場に腰を下ろした勾陣に物の怪はふん、と鼻を鳴らして答え、どうせわかっているんだろう、という目で彼女を見上げた。
「別に好きに呼ばせてやればいいだろう。どうせ減るものでもなし」
「あのなあ…いや、だから、名前ってのは一番短い呪で…って何で俺がお前にこんなことを言わないといけないんだ!」
ばしばしと前足で簀子を叩いた物の怪を面白そうに眺めて、勾陣は忍び笑いを洩らした。
本気で嫌がっているのならば強硬手段に訴えてでも阻止しに行くだろうに、それをしないということは既に半ば諦めているのだということに物の怪は気付いていない。
「そもそも、その呼び名が気に入らないのなら、他に何と呼ばせるつもりなんだ、騰蛇よ」
「む…」
「彰子姫にはまだ本性を晒すつもりはないんだろう?なら、騰蛇と呼んでもらうのは無理だな。二つ名を教えるつもりもない。さてどうする」
「むむ…」
「もっくんでいいじゃないか。というか、それ以外の選択肢などないと思うのだが」
「勾、もっくん言うな」
不機嫌そうに長い尻尾をゆらゆらと揺らして、物の怪は勾陣の肩に跳び上がった。こうした方が目線が近くなって話がしやすい。
「たぶん、俺が彰子に本性を見せることはあっても二つ名を教えることはない」
「だろうな…。しかしそれではいつかお前の名を呼ぶ者がいなくなってしまうぞ」
昌浩と彰子の子ならば期待はできそうだが、と続けた勾陣を物の怪は軽く睨んだ。
未だに誰にも二つ名を明かしていない勾陣や六合だって同じことではないか、と言いかけて、それは違ったと物の怪は口を噤んだ。
自分は、勾陣の二つ名を知っている。五十年前に晴明がこっそりと教えた、彼女の名を。
そのことを勾陣に言うつもりはないし、その名を呼ばなくてはいけないような時が来るとも考えたくない。
考えたくはないのだが、どうにもこの同胞は自分のことに関しては鈍感というか、我が身を省みずに無茶をすることがしばしばあるので、いつか取り返しのつかない事態になるのではないかと危なっかしく思うのも事実である。放っておくと何をしでかすかわからないからしっかりと目を離さないようにしないとなあ、などと物の怪は心の中でしみじみ呟いた。
「ん?何か言ったか騰蛇」
「何でもない。ただ…勾にしろ六合にしろ、名を教えていないだろと言おうとしただけだ」
物の怪の指摘に、勾陣は、確かにそうだな、と口元に手をやった。青龍の二つ名などは晴明がしょっちゅう呼んでいるから誰でも知っている。
「私も他人に教える予定は今のところないな」
「ほーれみろ。ひとのことを言えないだろ」
「まったくだ。さて、私はそろそろ戻るよ」
軽く肩をすくめてみせた勾陣が立ち上がるのに合わせて物の怪は簀子に降りようとしたが、勾陣の腕に捉えられたためにおかしな体勢で彼女を見上げる羽目になった。
「勾?どうした」
しぱしぱと目を瞬かせて首を傾けた物の怪には答えず、勾陣はその長い耳に口元を寄せて何事かを囁き、ふっと姿を消した。
その反動で簀子にぼとりと落ちて転がった物の怪は、今しがたまで同胞がいた場所を見、呆然と口を開けた。
「何なんだ、あいつは……」
最後の最後でこれまたとてつもなく大きな問題発言をしてくれたものだ。
相変わらず、彼女の考えていることがわからない。それとももしかしていいように弄ばれているだけなのだろうか。
『お前になら、その内教えてもいいと思うかもしれないがな』
「ったく…そういうことを言われると真に受けるぞ、俺は」
fin.
爆弾発言に焦るもっくんもとい紅蓮
07.8.10.