異界




 白い、どこまでも白い雪原に紅蓮は立ち尽くしていた。何故こんなところにいるのだろう、というごく当然の疑問は不思議と思い浮かばなかった。その代わりに、胸の奥の、深い部分が傷みに疼く。
 雪は嫌いだと、言葉には出さずに呟いた。雪は嫌いだ。己の犯した咎を否応なしに思い知らされるから。
 決して消えぬ罪を背負い続けているのだと、雪を見るたびに自らを戒めている。
 思えば、無垢な心に寄り添うためにあの物の怪の姿を取ったのだと思い込んでいたが、その色は処女雪と同じ色だ。純白の毛並みに浮かぶ赤い瞳は、結局のところ自分の罪を体現していただけなのかと、紅蓮は両手で顔を覆い、息を吐き出した。
「俺はやはり…昌浩の傍にいる資格などないようだな」
「お前、また落ち込んでいるのか?」
 誰に向かうともでない独白に対する返事が返ってきたことに驚いて、紅蓮は顔を上げた。いつの間にか背後に同胞の神気が一つ降り立っている。
 そこでようやく紅蓮は今いる場所が雪原などではなく、異界であったことに気がついた。目の前の白い景色は消え失せ、代わりにどんよりとした重苦しい灰色が視界を占める。
「昌浩が心配していたぞ、自分の殻に引き篭もったまま出てこない、とな。…おい、ひとの話を聞いているのか」
「まさひろ、が……?」
「そうだ。……話したそうだな、昌浩に」
 何を、とは勾陣は言わなかった。紅蓮の頭の中の空白だった部分に、少しずつ記憶の断片が埋まっていく。
 ああ、そうだ。貴船で防人の件を片付けた後、紅蓮は昌浩に過去の罪を告白したのだった。抱えていたものをようやく話せたという思いと、拒絶を恐れる感情から、紅蓮はこの数日を鉛のように重たい気分で過ごし、見かねたらしい昌浩から異界にいてもいいよ、と言われるままにこうしてあの場所から逃げてきた。
「あれ以来お前の様子がおかしいと、昌浩がひどく気にしていた。言葉には出していなかったが、彰子姫もな、見ていればわかる」
 足音と共に歩み寄ってくる気配がして反射的に身を強張らせると、背に暖かいものが触れた。癖のない髪が肩甲骨の辺りに当たって少しくすぐったい。
「勾?」
 普段の彼女ならばここで平手の一つでも喰らって、容赦のない叱咤の言葉を浴びせられるところのはずだ。どういう心遣いかは知らないが、紅蓮は黙って背中の温もりを感じていた。こういう時、何も言わずにただ傍にいてくれる彼女の存在をどれほどありがたいと思うか。
「…すまない」
「謝るならさっさと昌浩のところへ戻ってやるんだな」
 あれは本当に心から心配していたぞ、と付け加えて勾陣は紅蓮の背から額を離した。遠ざかる体温に名残惜しさを感じて振り向くと、彼女はいつものように薄く笑いながら腕を組んでいた。
 わざわざ昌浩のことを伝えるためだけに勾陣はここに来たのだろうかと考えながら、紅蓮は無意識のうちに口を開いていた。
「勾…お前は、俺を心配してくれたのか?」
 自分でも間抜けな質問だと思ったが、当の勾陣は軽く柳眉を動かすと紅蓮の胸にとん、と人差し指を押し当てた。
「騰蛇、お前な…同胞を心配しないやつがどこにいるんだ?」
「そうか…」
 さも当然のような口ぶりだったが、まだ己を“同胞”と呼んでくれることへの嬉しさで紅蓮はつい口元を緩めた。
「悪いな、勾」
「気にするな」
 それより早く行け、という声に背を押されて紅蓮は人界へと足を運んだ。
 こういう時、紅蓮は思う。昌浩は暗闇の中にいた自分に手を差し伸べて光の導を与えてくれた存在で、勾陣は気がつくと傍にいて何も言わずに背を押してくれる存在なのだと。
 それは、どちらもとても大切で、得がたいもので、失いたくないものだ。




 抑制された騰蛇の神気が昌浩の部屋に戻ったのを確かめて、勾陣はふと肩の力を抜いた。火桶に手を翳していた晴明がちらと視線を向けてくる。
「すまんの、勾陣」
「気にするな。……これでよかったのだろう?晴明」
 返答代わりの笑みに、相変わらずの狸めと内心で呟き、勾陣はその場に腰を下ろした。
 騰蛇が何やら元気がないようだからちょっと様子を見てきてくれ、と頼まれたのがしばらく前のこと。わざわざ自分を呼び出すぐらいだから、その裏にある意図は、先日六合たちから聞いた話と合わせると容易に想像できた。
 いっそあの横面を張り倒してくればよかった、と思わないでもないが、そうしなかった理由は特にない、と言えば嘘になる。異界で立ち尽くしていた背中がひどく小さく見えて、躊躇ってしまった。下手に叱責すれば際限なく落ちていってしまいそうな気がして、結局自分でも予想していなかった行動を取ってしまったことは不覚だ。
「騰蛇は……まだ闇の中にいるのか」
「さて、どうかのぅ……昌浩でだいぶ変わったと思うんじゃが」
 しみじみと述べる主に勾陣は軽く首肯して、昌浩の部屋がある方を見遣った。
 完全にとまではいかないことはわかっている。だから、今は暗い騰蛇の心が少しでも晴れてくれればと、思う。

fin.

08.10.23.