紅蓮
都人が寝静まる夜半。甲高い妖の鳴き声が今し方発した己の声に重なるように響いた。
「勾……!」
「断る」
いっそ鮮やかな即答だった。
紅蓮は言葉を失って同朋の瞳を見返した。
「なぜだ……?」
それだけをようやく呟くと、勾陣が軽く首を傾げた。肩に届かない黒髪がさらりと流れる。先ほどまでの険しい表情がやや弛み、口元にはこんなときだというのにうっすらと笑みを浮かべていた。
「私が二つ名を呼ぶことに一体何の意味があるというんだ」
「……もしも、俺がまた暴走するようなことがあれば、そのときに止めてほしい」
その心に偽りはない。ただ、頭のどこかで、勾陣にこのことを申し出ても一蹴されるだろうという予感は薄々あった。
「確かに、約束はした。いざというときにお前を止めるという、な。……だが、私が名を呼んだところで、騰蛇。お前は正気に戻るのか……?」
痛いところを突かれ、紅蓮は再び沈黙した。それまで攻撃の機会をじりじりと窺っていた四つ足の妖が横合いから飛びかかってくるのを視界に捉え、そちらへとぐろを巻く炎の蛇を半ば反射的に叩きつけた。
勾陣の言うとおりかもしれない。余り想像したくないが、いつか訪れるやもしれぬ“もしも”の際、果たして自分はどれだけ自我を保っているのか。
「それよりも私ができるのは、いや、私にしかできないのは、力尽くで止めることだろう……違うか?」
淡々と述べながら、勾陣の手の中にある筆架叉がもう一体の妖を斜めに両断する。
「そう、だな……」
とどめとばかりに一際大きな炎を召喚し、耳の奥に纏わりつく断末魔と妖の骸を焼き尽くすと、ようやく辺りに漂っていた障気が霧散した。周囲の気配を探っても仲間がいる様子はないから、これで全てだろう。
ふうと息を吐き出して互いに顔を見合わせる。
「それとも……」
勾陣は探るような目で見上げてきた。終わったと思っていた会話にはまだ続きがあったらしい。
「そんなに私に名を呼んでほしいのか?」
それは鋭さをもって紅蓮の心の臓に突き刺さった。核心、とも言えるべき箇所に触れられた。そう思った。
「別にそういうところに拘ってるわけじゃないが」
ぐっと口元を引き結んで反論すると、「ほう……」と疑いの視線が向けられる。
誤魔化すにしても相手が悪かった。何せあの勾陣だ。口先でどう取り繕ったところで、全てを見透かしているに違いない。
「もういい、この話はなしだ。……帰るぞ、勾」
紅蓮はさっさと勾陣に背を向けて安倍邸へと帰還する選択肢を取った。明確な拒絶の言葉を引き出してしまったあとでどう反応すればいいのかもわからず、逃げた。十二神将最強が聞いて呆れる。
二つ名を預ける。そこにどれだけの重い意味があるのか、量ろうとしてもできるものではない。まして、紅蓮は既に勾陣の二つ名を本人のいないところで預けられてしまっている。やや後ろめたさを抱えながらこれまで過ごしてきて、やはり公平にあるべきではなかろうかと、考えた。一方的に押しつけたり押しつけられたりでは不公平だと言ったのは勾陣で、だから互いに抑止となれば、と。
考えた結果がこれだったのだが。
いっそ、勾陣に二つ名を知っていることを明かした方がいいのかもしれない。そうして、その上で。
一度でいいから、「紅蓮」と呼んではくれないかと。その瞬間、今まで築いてきた二人の距離だとか関係性というものは悉く崩壊してしまうに違いない。呼んでしまえば、もう元の関係には戻れない。踏み込まないようにしてきた最後の砦を自ら壊そうとしているのだ。その先にあるのは、果たして。
弱いな、俺はと胸中で呟いて、物の怪の姿を取った。
だから、紅蓮は見なかった。勾陣がそのときどんな表情をしていたのかを。
fin.
10.3.19.