凶将
陰鬱な霙混じりの雨がほろほろと地面を濡らしている。漂う
空気はどこか生ぬるい。季節が冬から春へと着実に移り変わろ
うとしているのだ。がしかし、安倍家を取り巻く空気は人知れ
ず重たく、鈍い。
晴明は毎日のように自室で何やら占じたり険しい顔をしたり
している。明らかに精彩を欠いているのは見て取れるのに、誰
も彼も、あの青龍ですらそれを口にすることを憚っている。陰
陽寮の一室で昌浩が額に浮き出た脂汗を隠しながら青い顔で仕
事をこなしている。そんな二人を心配している吉昌と露樹にも
当然、伝播している。
あれ以来、そんな日々が続いている。
居心地が悪い。騰蛇が、いない。
勾陣は努めて冷静に深く息を吐き出して、床板を睨みつけた。
少し離れたところで膝を抱えていた太陰の背がわかりやすく跳
ねるのが横目に窺えた。
生きた年月は同じでも精神的にはずっと幼い彼女が怯えてい
ることは、とうに肌で感じている。
「昌浩の様子は?」
なんとなく罪悪感めいたものを覚えて少しでも気を紛らわせ
ようと話題を振ると、「……さっきまた紙に墨をこぼしかけて
たわ。これで三度目よ」と膝に顎を乗せたまま太陰が振り返っ
た。
「そう、か……」
「うん」
桔梗色の瞳が頷き、伏せられた。それきりまた話が途切れる。
「……ごめんなさい。気をつかわせて」
唐突な言葉に「私だって、怖くないように頑張ってはみてる
けど……勾陣が騰蛇のことで怒ってるのは知ってるし……その、
ごめんなさい」と独り言のような謝罪が続いた。
「いや……」
安心させるようにほんの少し口元を緩めてみせて、勾陣は鉛
色の空を仰いだ。そのまま目を閉じて柱に背を預けていると、
瞼の裏に残像が浮かんでは消える。
十数年前、昌浩の誕生をきっかけに凶将の片割れである騰蛇
はそれまで引きこもっていた異界から人界に降り、以来そちら
で時を過ごすことが増えた。片や勾陣はと言えば、それまでと
変わらずに異界にあり、晴明の召喚に応じて人界に行きはした
が、恒常的に過ごす、ということはなかった。
勾陣は、それでいいと思っていた。晴明の子もそのまた子ら
もまだまだ子どもだったし、長じてからもやはり凶将の気配を、
特に騰蛇を恐れていたから、二人の凶将がどちらも人界にいる
のはよくないと判断してのことだった。
昌浩の成長とともに変化する騰蛇を時折見ながら、安堵して、
少し寂しい気持ちになり、昌浩ならば大丈夫だと、考えた。あ
の二人の間には強い絆がある。騰蛇は光の導を見つけたのだ。
それが。今、ここに凶将は自分しかいない。騰蛇がいない。
あれは、縛魂の術によって昌浩を傷つけ、更には智鋪の手に落
ちてしまった。
釣り合いが悪い。騰蛇の神気がないことが、こんなにも勾陣
を不安定にさせるとは、予想もしていなかった。
凶将の一方を欠いたために、それまで保たれていた均衡が崩
れてしまい、不足を補うように勾陣の神気が必要以上に強くな
っている。
だが、それを抑えるつもりはない。過日昌浩に対して貴船の
神が選択肢を突きつけた、その場に勾陣は居合わせていた。ま
だ、昌浩は答えを出していない。それでも昌浩が何を選ぶのか、
わかっているような気がする。
「そのうち、決着がつくさ」
「そうね。……昌浩、どうするつもりかしら」
もし昌浩の選択が勾陣の予測しているそれであった場合、再
びあの十二神将最強の男とやり合わなければならない時がくる。
拮抗できるのは通力を最大限に解放した自分だけだという自負
がある。だから、勾陣は今高まりつつある神気をより強めてい
るのだ。来るべきその時、いかなる手段を用いても騰蛇を止め
ることができるようにと。
「……取り戻してみせる」
「うん。……確かに、私騰蛇のことは怖いけど、でも、それで
も同じ神将だもの」
戻ってきてほしいのと言った太陰へ首肯し、勾陣は静かに思考する。
もしこのまま“今の騰蛇”が戻らなければ、どうなるだろう。
“新しい騰蛇”を想像してみて、想像できないことに自嘲した。
きっとその“騰蛇”は、十二神将で凶将で火将の騰蛇であって
も、“紅蓮”ではないのだろう。晴明が、昌浩が呼ぶ紅蓮の二
つ名を冠すことができるのは、勾陣もよく知る彼だけだ。
一度ぐらい、戯れに二つ名を呼んでみるべきだっただろうか。
もしも自分が呼べば、あの男はどういう反応をするのか見てみ
たい気もする。名を呼んで彼が戻ってくるなら、いくらでも呼
ぶというのに。
呼べるものならとっくに呼んでいる。一度、騰蛇の方から二つ名を預けると持ちかけられたときはひやりとした。あそこで拒絶していなければ、今頃事態は別の方向に動いていたのか。 そう考えてみたところで、それは所詮想像でしかない。
「いや、やっぱり呼ぶことはないだろうな……」
「……なにが?」
つい口に出してしまったようで、太陰が首を傾げる。
「ただのつまらない考え事さ」
早く、戻ってこい、騰蛇。昌浩が、待ってる。ここには、お前の居場所があるんだ。凶将は二人いなければならない。私と
お前の二人で凶将なのだ。私だけがいるのでは不公平だ。気にくわない。だからさっさと戻ってこい。
滅茶苦茶な言い分とわかりながらもそう心の中で呟いてから、結局は自分が彼を取り戻したいだけなのだというつまらない個人的感情にきつく封をした。
fin.
10.3.8.