平手打ち




 勾陣の意識が戻ったと聞かされてから数日後、紅蓮はようやく異界の彼女の元を訪れた。今日はたまたま昌浩は物忌みで、大人しく自室で塗籠から持ち出してきた巻子を紐解きつつ頻りに彰子の見舞いに行っていたから、しばらく自分がその場を離れても問題ないだろうと判断してのことだ。晴明の元にも数名の同胞が常時待機しているし、そちらの心配もない。
 天狐凌壽と死闘を繰り広げて以来の異界の空気を吸った紅蓮は深く息を吐き出した。乾いた風が鉛色の世界を吹き抜け頬を撫でる。忽ち脳裏に蘇るのは、突きつけられた刃と、煌く金色の瞳と、腕の中に掻き抱いた彼女の肢体の感触だった。あの時向けられた純粋な敵意は、思い出しただけでも未だに背筋が粟立つ。
 それらの残像を振り払うかのように髪をぐしゃりと掻き回して、足を動かした。おそらく彼女は太裳の結界の中だろう。その周囲には他の同朋らの気配もある。
 結界の気配を頼りにその場所に向かうと、初めにこちらの存在に気づいた天后があからさまに眉根に皺を寄せる。何をしにきたのかと言いたげな表情に、「少し外してくれ」と返して、紅蓮はそのまま足を進めた。やや離れたところに佇み様子を窺っていた太裳がちらと天空を一瞥した。
「勾に会わせろ。意識は戻ったんだろ」
「……わかりました。少し、だけですから」
 勾陣の窮地をを救ったのは紛れもなく騰蛇であるということは天后も不本意だろうがそうでなかろうがどうやら認めているところで、多少なりとも思うところがあったのだろう。きゅっと唇を噛み締めて、天后は横目で一瞥してから入れ替わりに人界へと降りていった。同時に、結界を残したまま太裳と天空の気配が遠ざかる。彼らなりに気を回してくれたらしい。
 太裳の結界の内側に進入すると、中央に横たわっていた勾陣がふと瞼を持ち上げて首を緩慢に巡らせた。
「とう、だ……?」
「勾……」
 無事だと聞かされても実際この目で確かめるまでは信じられなかった。声を聞くのも久しぶりだ。上体を起こそうとする勾陣に手を貸してやり、そのまま片腕の中に抱く。
 そこまでの僅かな動作で既に彼女の呼吸は荒い。顔には未だ血の気は戻らず、青白い唇が負った傷の深さを表している。その様が痛々しい。
 無意識のうちに顔を歪めていたらしく、「そんな顔をするな……とりあえず、無事だ」とぎこちない様子で勾陣に苦笑された。普段ならば、笑えるなら大丈夫だろうと軽く返すところだが、後に続ける言葉を見失ってそのまま曖昧に頷いた。
「あ、あぁ……そうか」
「なんだ、信じていないのか?……この通り、生きてるさ」
 他者に対して、それが例え神将相手であってもあまり自己の弱みを見せない勾陣はそうは言うが、端から見ると傷だらけで神気は弱々しくてと、満身創痍の一言で片付けられるものではない。本当に危ないところだったのだと、今更ながらにぞっとする。特に紅蓮はその状態での勾陣と一戦を交えているのだ。そんな重たいものを胸に抱えたままでは顔が険しくなるのも無理がない。
「あー……勾、なんだ、その」
「……?はっきりしろ……」
 紅蓮には、勾陣の顔を見たら、と決めていたことがあった。
「すぐ人界に戻る……その前にな、一つだけいいか」
 何事かと首を傾げる勾陣に向き直り、紅蓮は大きく息を吸い込んだ。一旦抱いていた腕を外して肩に手をかけ、空いた左手をやおら振りかざし  へたり、と彼女の頬に下ろした、というよりも当てた。ぺち、といささか間の抜けた音がする。
「よし……うん、すっきりした」
「騰蛇?な、にを……」
 呆気に取られた表情で瞬きをした勾陣の華奢な肢体を引き寄せ、細い首筋に額を押し当てた。傷に響かないよう気遣いながら背に手を回す。最後に触れたときよりも少し、痩せた気がする。勾陣の首飾りに金冠がぶつかり硬質な音を立てた。
「……俺が、あのときどんな思いだったと思う?」
 低く、呟けば、勾陣の唇から震える吐息が漏れた。
 激しく胸を衝いた危機を告げる感覚。駆けつけた異界で四肢を赤黒い血糊に染めていた彼女に刃を向けられ、ついに、永劫呼ぶことはないと思っていたその二つ名を口にした。腕の中に抱いた身体は、ぐったりと重く、生命が刻々と流れ出す様に戦慄した。意識が戻るまでは気が気でなくて、ようやく今、安堵して。晴明の命の刻限が近いと知ったそれとはまた違う類の喪失の恐怖を味わった。
「これぐらい、いいだろ……」
 勾陣からは既に数度張り手を喰らっている。あれは効いた。ならば自分も同じことをしてやろう、と思いついた。つまりは無言の説教だ。いくら言葉で伝えたところで、きっと勾陣は聞く耳を持たないだろうから。
「こんなことは二度とごめんだ」
 なぁ、勾、と呼んだ声は想像以上に掠れていた。
「……心配かけた」
 囁きと共に伸ばされた手がゆるりと背に回った。
 ああ珍しく殊勝な発言だ、と思ったのは口に出さない。ひんやりとした、それでも確実に体温を持った指先が背を撫でる感覚がひどく心地よい。
 もっと自分自身を大切にしろだとか、余り無茶はするなだとか、言いたいことは山ほどある。けれど、それらの行動は全て勾陣の十二神将としての、晴明の式神としての矜持の高さがそうさせているのだ。ゆえに、同じ位置にいる騰蛇が否定することはできない。だから、少しはこちらの想いも察してくれとの意味を込めた。とは言え、女性に手を上げるのはよくないだろうと気づいたので、極々手加減をしてこうなった。胸中で長い言い訳を並べ立てている間、勾陣は何も言わなかった。
 説教ついでに二つ名を呼んでしまったことを謝らなければと思っていたはずだが、それすら忘れて、しばらくの間そうやっていた。
 鼓動を数えながらどれほど経ったか、勾陣が指でとん、と紅蓮の背を叩いた。
「ああ、そういえば、騰蛇……」
「ん?……」
「お前、呼んだな……」
 何をと問うまでもない。二つ名のことだ。ぎゅっと縮まった心の臓を宥めて「すまん……」と声を押し出す。
「今更だ。それしか、術がなかったのだろう……知っていたこと云々は抜きにしてだ」
 途切れ途切れに話す勾陣の呼吸が次第に浅くなっていくのを感じ取り、そろそろ時間かと紅蓮は抱く腕を緩めた。休ませなければ、傷に障る。
「説教なら今度いくらでも受けてやるから、もう休め」
 背に手を当ててゆっくりと横たえようとしたとき、勾陣がぐいと紅蓮の肩を掴んだ。
「……勾、どうした?」
「これだけは言っておかないとと思ってな……」
 いいから耳を貸せと言われて、口元に顔を近づける。耳朶にかかる吐息にわけもなく動揺した。
「呼んでくれたのがお前でよかったと、思ってる」
 伝えられた予想外の内容と、笑んだ彼女の気配と、その他のよくわからない要素が絡み合って、鼓動が動揺どころではなく跳ね上がった。四肢の末端までもが己のものではないかのように痺れに侵されていく。
 今すぐこいつを抱きしめたい。混沌とした思考回路の中からすくい上げた一番素直な欲求に従うまま、紅蓮はぎゅう、と勾陣を腕の中に閉じ込めた。
「……っ、騰蛇」
 いい加減、もう後戻りはできないかもしれない。今までも幾度かそう感じることはあり、その度に避け続けていたものが、今も目の前に立ちはだかっている。
 この気持ちは、一体何だというのだろう。

fin.

10.3.27.