背中合わせ




 安倍邸に風が吹く。それは、つい先ほどまで都中に吹き荒れていた荒々しいものではなく、秋の終わりを告げる冷たく爽やかなものだ。
 簀子にぐったりと手足を投げ出して高欄に背を預けた紅蓮はやれやれと重たい息を腹の底から吐き出した。剥き出しの腕や足には数え切れないほどの裂傷ができている。
「……勾、疲れた」
 ぼそ、と呟いた言葉を拾い上げ、勾陣が「奇遇だな、私もだ」と疲れを滲ませた声音で応える。体力には問題ない。これしきのことで十二神将の最強と次点が疲労困憊してなるものか。だが、神気を抑制し、天狗を傷つけないように気を配りながらしかも自分の身を守るという戦闘はひどく神経を擦り減らした。それでも、あの子が命じたことならばやるしかない、やらなければならない。自らの意思で決めたのだから。
 それにしても疲れた、と紅蓮は立てた膝に額を押し付けた。しばらくこの場から一尺たりとも動きたくない。未だ昂ぶりを残す火照った身体に、風が心地よく吹き抜けていった。
「疲れたならばさっさと物の怪の姿になって休めばいいのではないか」
 若干の笑いを含んだ傍らの声に、紅蓮は「あー……」と気のない返事をやって頭を上げ、黒曜の瞳を見遣った。変化するよりも本性でいたほうが当然の事だが神気の回復も傷の治りも早い。それをわかっているくせに、彼女はこうやって自分をからかおうとするのだ。
 今邸に彰子がいなくて心底良かった、と胸の中で呟く。そうでなければこうして本性を晒してはいられない。吉昌も先刻やって来た寮からの使いに叩き起こされて飛び出していった。今頃天文部は上へ下への大騒ぎとなっていて、彼のことだからおおよその原因やらを何となく理解しているのだろう。ああ、大変だなぁ、父と子の間に挟まれた苦労人は、とは完全に他人事の目線である。
 その他の懸念材料の青龍とか青龍とか主に青龍とか天后は、未だ異界に留まり神気の回復に努めよとの晴明の言伝を白虎から聞いているから、その通りにしているはずだ。ということは、今のところ実は意外と平和かもしれない。紅蓮にとっては。
「勾、悪い、借りる―」
 人目を憚る必要がなくなったと理解したからなのか、そうでないのか、何をとも言わず、勾陣の許可も待たずに紅蓮はずるずると彼女の肩に頭を預けた。
「私はいいとは一言も言っていないが」
「駄目ならとっくに実力行使してるだろう、お前」
「よくわかってるじゃないか」
 くく、と喉の奥で笑って、勾陣は足を組み替えた。そのすらりと伸びた白い両の腿や脹脛にも、顔のすぐ下にある二の腕にも赤い筋が幾本も走っているのを横目で見ながら、紅蓮は目についた片手を持ち上げて引き寄せ指を絡めた。手首の腕輪がしゃらりと澄んだ音を立てる。
「なんだ、騰蛇……」
「いや、別に。ただ    
 なんだろうなぁ、と曖昧に答をはぐらかし、紅蓮は「久しぶりだから、か」と呟いた。
 勾陣とこうして二人で過ごすことも、更に言えば背を合わせて戦うことも、実に久しぶりだ、と改めて記憶を辿る。
 思えば、どちらかが神気を最大限にまで解放して戦闘していた時は、もう片方がその場にいないようなことが多かった。窮奇戦に、あまり思い出したくないが道反から続く出雲での件。天狐が絡んだ騒動ぐらいではなかろうか。あと、それ以外にも昌浩に付いて妖と戦ったりしたことが    
「……何かあったっけなぁ」
「だから、なにがだ。独りで話を進めるな」
「あー……別に独り言だと思ってくれれば」
「随分と、勝手だな」
 やれやれと嘆息する気配はあるが、本気で苛立っている色はない。それをいいことに、紅蓮は独り言を進めることにした。
「付き合いは長いくせに、何だかんだ言って俺たち二人が同時に出るってのは、そうそうないもんだな。いや、むしろそうそうあっても困るんだが」
 勾陣から応えは返ってこない。
「だが、今回の件で、久しぶりに勾とこうやって一緒に戦って、正直俺は楽しかった。自分の背後を任せられるやつなんて、他にいやしないんだ」
 そこまでつらつらと言って、紅蓮ははたととんでもなく恥ずかしい台詞を口にしたことにようやく気がついた。おかしな汗が吹き出て、心の臓がありえないほど跳ね上がった。なんだこれは。
 慌てて弁解を試みるために顔を上げて、勾陣を覗き込むと、滅多なことでは表情を面に出さない同胞が珍しく呆気に取られたような間抜けな顔をしていた。
「騰蛇……ついに頭でも沸いたか?」
 かなり失礼な言葉を吐く彼女の、頬が僅かに朱に染まっている。反則だ、と紅蓮は内心呟いた。まさかこんな反応をされるとは思ってもみなかった。
 気まずい空気が流れ、二人はどちらからともなくふいと顔を逸らし背を向けあった。
「あ、いや、勾……、その……すまん」
「なぜ謝る。……別に怒っているわけじゃない」
 むしろ嬉しいさ、と勾陣は小さく笑った。
「お前が……あの他人を寄せ付けなかった騰蛇が、そこまで言ってくれるようになったとは」
 返す言葉もない紅蓮の背に、温かな重みが加わる。触れた箇所を通して直に伝わってくる声が、無性に愛おしい。
「お前の前には昌浩がいる。だから、背は私が守ってやるよ。案ずるな。その代わり、私の背も任せたからな」
 ああ、どうしよう。今とても彼女を抱き締めたい衝動に駆られている。
 紅蓮にとって、行く先を照らす光が昌浩ならば、勾陣は背を押してくれる存在だった。常に背後にあり、戦いの際は同胞として対等に傍らにあり、手を伸ばしてくれた。
 その関係を崩すつもりはなく、崩れるつもりもなく。    今までは、そうだった。
 けれど、今はそれ以上を望んでいる自分がいる。決して越えてはいけない境界から、足を踏み出そうとしている。
 紅蓮は髪をぐしゃりと掻き回すと短く息を吸い込み、乾いて貼りつきそうな喉から言葉を搾り出した。

「なぁ、勾    

fin.

一歩踏み出してみる

09.7.19